昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「日本一選挙に強い男」中村喜四郎は、なぜ新潟県知事選に本気で挑むのか

幻の中村喜四郎独白録「私と選挙と田中角栄」#1

2018/06/08

genre : ニュース, 政治

「この人のために汗かこう」という気持ちに

――自民党候補の応援に来た角栄が、「敵」である無所属候補にもエールを送る。茨城の中村派も悪い気はしなかったということですね。

 心、鷲づかみですよ。後年、母が病気になって入院した時、田中さんがロッキード裁判の公判を終えてから病室にお見舞いに来たことがありました。それでね、1時間も病室にいた。ただ来たんじゃない。あの田中角栄が1時間もいた。そういうことがしっかりと家族の心をつかむんですよ。「この人のために汗かこう」という気持ちにさせる。

 形だけではない。「田中さんはやっぱり苦労している人だから」と、人の心に届く。みんなの力をつかんでしまう。大衆政治家ですよ。これも選挙の極意というか、まあそういうものに通じるものがある。とにかく卓越していた。私だって後年、(ゼネコン汚職で逮捕されて)裁判を抱えている時にはとてもそんなつもりにはなれなかった。そういう経験をしてから、改めて田中さんはスゴイと思いました。

自宅で書を嗜む田中角栄氏 ©文藝春秋

――中村さんは1976年の総選挙で衆院議員になった後、1985年に田中派を飛び出し、竹下登さんと金丸信さんが立ち上げた創政会(後の竹下派「経世会」)に参加しました。中村さん自身にとっては「経世会のプリンス」として頭角を現すスタートラインとなりました。ところが、その直後、田中角栄は脳梗塞で倒れます。

 竹下さんがグループを束ねて田中派を出ていこうとした時、あくまでも「田中派の総理を作る」というのが我々の意志でした。「竹下さんを次のリーダーにする」ということではなくて、田中派にはこれだけ人数がいるんだし、みんなずっと田中さんの言う通りにやってきたんだから、もうそろそろ仲間の中から(田中さん以外の)総理大臣を出してもいいだろうという思いでした。

 ところが不幸なことに、あの時の田中さんの心理ではそうと受け止められず、「謀反だ」と受け取ってしまった。それで、お酒なんかも非常に飲んだりして、体調を崩されてしまった。

 だけど、田中さんと竹下さんを比べるような考え方なんて全くなかったですよ。我々の親分は田中角栄であり、親分の下で竹下さんを総理にするんだ。そういう考え方だったんですが、そういうふうに捉えてもらえなかったことが、私にはさびしかった。

実体と違う田中角栄像が出来上がってしまった

――田中角栄は総理時代にも、政権運営に批判が強まる中で突然入院することがありました。あの頃、中村さんは田中事務所に勤めていましたが、近くで見ていて総理の体調が悪そうだという印象はありましたか。

 いやいや、体調が悪いというよりも、無理している感じですよ。「ゴルフを何ラウンド回った」とか言って、自分の体力を誇示することによって、「オレは逆境を乗り越えられるんだ」と自分に言い聞かせ、無理をしていた。近くで見ていても、それがありありとわかる。ストレスもあったのに、私は「そこまで無理してゴルフをやる必要があるのかな」と思いました。

 私もその後、同じように(ゼネコン汚職)事件で追及を受け、刑事被告人になる経験をしましたが、やはり目に見えないプレッシャーとの戦いになります。私もそれを払いのけよう、払いのけようとして、非常に無理していたという感じはありましたね。

©常井健一

――総理時代には衆参で1度ずつ国政選挙をしているのですが、「今太閤」と呼ばれ、国民的人気が高かったと言い伝えられる割には芳しい結果を出せていません。私はそのナゾを追い続けているのですが、「選挙の神様」はなぜ一番の勝負時に本領を発揮できなかったのでしょうか。

 総理になる前は非常に期待されたし、政策も魅力的だったと思われましたが、総理になってからは「金権政治家」と叩かれていました。田中さんの能力とか魅力とかいうのは、総理になってからは国民にとって逆にマイナスに映ってしまった。そういうような中で田中さんの能力は、総理大臣になってからはあまり発揮できなかった。

 やっぱり田中さんのようなタイプが総理大臣になるということは、日本社会の中で非常に抵抗感が強かったんじゃないですか。「総理を1回やらせてみたい」という興味はあっても、いざなってみると、成り上がり者ということで、そういうものに対して叩こうという全体的な雰囲気、ネットワークが形成されていたように感じますね。

 だから、今振り返ってみると、非常に特異なキャラクターだったし、それをうまく活かせるような態勢作りを周りの人たちもしてあげることができなかった。そのために、力が発揮できないまま総理を辞めることになってしまった。

 退陣後は「院政」というような、国民が望んでいないようなことを自民党の中で展開していった。そうすると、非常に特異な魅力を持った人、大衆的な人でもあるのにかかわらず、国民から見ると「黒幕の元締め」みたいなイメージ。どんどん実体と違う田中角栄像が出来上がってしまったんです。ロッキード事件が、さらにそういう方向に強く持っていったということですね。

※#2〈四半世紀も眠っていた「田中角栄の愛弟子」が安倍一強打倒に動き出した〉につづく