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“異質の元エース” 巨人・内海哲也が持っている力とは

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/08/24

 内海哲也の投球は、野球は個人戦ではなく、団体戦であることを思い出させてくれる。

 21日のDeNA戦に先発した内海は、毎回のようにランナーを背負い、打球が直撃した右脚を腫らしながらも踏ん張り抜いた。かつてのエースの力投に応えるように阿部が援護弾を打てば、岡本がタイムリーを放ち(エラーもして)、沢村がつなぎ、最後はアダメスがヘロヘロになりながらもリードを守り切った。絶対的な力を持つ投手ではないからこそ、ナインが一体となり、単なる個の積み重ねではないチーム力が引き出される。内海のピッチングにはそんな力があるように思えてならない。

巨人軍史上、もっとも「孤高」のイメージから遠いエース

 妥協を許さない男――。あまりの練習の虫ぶりに、番記者の間では尊敬の念を込めてそう呼ばれていた。宮崎で、沖縄で、グアムで、ジャイアンツ球場で、時には日が暮れるまで走り続けた。お客さんが入る前の東京ドームで、スタンドの階段をうめき声を上げながら何度も何度も駆け上がる姿も印象的だ。故郷の京田辺市で公開していた自主トレでは、元旦からいきなり7時間以上も練習したこともあった。

 だが、内海の猛練習には悲壮感がまったくないのも特徴だ。若手投手やブルペンキャッチャーなどの裏方、地元の友達、時には若い記者までも巻き込み、ワイワイと騒ぎながらとんでもない練習量をこなす。気心の知れた高校時代のチームメートを個人トレーナーに雇い、体のメンテナンスにもストイックに取り組んできた。プライベートでも後輩を引き連れて食事やお酒の席に出かけ、ある時は相談に乗り、ある時は説教をかます。言葉ではなく、姿勢で見せる、という前時代の感覚ではなく、まるで部活の先輩か年上の友達のような雰囲気で、言うことは言う。プロとしてのライバル意識よりも、チームが勝つための仲間意識を高めることを重視してきた。

 でも、馴れ合っているだけではない。リーダーの内海が一番自分に厳しいからこそ、下がサボるわけにはいかない。東野峻、山口鉄也、小山雄輝、宮国椋丞、今村信貴らが内海を手本にするように、次々に育っていった。野手陣ににらみをきかす阿部慎之助、投手陣を明るくまとめる内海。この二つの太い軸こそが、2度のリーグ3連覇を果たすなど黄金期を迎えた第二次原政権の枢軸だった。

妥協を許さない男・内海哲也 ©文藝春秋

 巨人軍史上、もっとも「孤高」のイメージから遠いエースだろう。堀内、江川、西本、桑田、上原ら巨人のエースの看板を背負った選手はみな、己と孤独に向き合って力を磨いてきた印象がある。内海の後を次いでエースになった菅野もまた、投手陣のリーダーとしての役割を果たしつつも、孤高の香りを残している選手だ。だからこそ、内海の異質さが際立つ。

 元々すごみがある、というタイプの投手ではない。キャンプなどで他の投手陣と並んで投げ込むと一目瞭然だ。杉内や宮国、山口らと比べると、内海のボールは正直に言ってしまうと見劣りがした。

 最多勝2回、日本シリーズMVP、WBC2大会連続代表。残してきた数字と実績は同時代のベストピッチャーたちに決して劣らない。でも、いわゆるスーパーな存在ではおそらくない。

 だから、というわけではないのだろうが、首脳陣やチームからもそれなりの扱いを受けてきた。若手の頃、原監督からは「突発性四球病」と揶揄されたり、「侍のスピリットがない」とニセ侍呼ばわりされたりしたこともある。18勝を挙げてようやく正真正銘のエースになったかと思えば、球団は同じ左腕の杉内俊哉をFAで獲得する。内海が「俺じゃ不足なのか」と感じたことは想像に難くない。さらに、投手コーチから「(ボールにキレのある)杉内の後に内海を投げさせるのはかわいそう。相手打者がラクに感じてしまうから」とはっきり言われてしまったことすらある。最多勝がかかっているのに「二塁・エドガー」の布陣を敷かれたときは、さすがの内海も「(最多勝)獲りたくても獲らせてくれへんもん」と閉口していた。

 その内海も、はや36歳。近年は2桁勝利から遠ざかり、昨年は2勝7敗、防御率5.77。今季はキャンプ2軍スタートと「内海もそろそろ……」という雰囲気が漂いはじめていたのも事実だ。