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特集観る将棋、読む将棋

将棋アマ名人を獲得した鈴木肇が、再びプロ棋士を目指すまで(前編)

誕生日にはまるでいい思い出がなかった

2018/11/30

 2018年9月9日。鈴木肇(すずき・はじめ)は、31回目の誕生日を迎えていた。

「いい誕生日にしたい」

 鈴木はそう思っていた。なぜならそれまでの人生、誕生日にはまるでいい思い出がなかったからだ。

 中でも最悪だったのは、5年前の誕生日だ。

誕生日は退会へのカウントダウンにも等しかった

当時23歳、奨励会で悪戦苦闘していた頃の鈴木肇(撮影筆者)

 鈴木はかつて、将棋のプロ棋士を目指していた。その養成機関である奨励会には、鉄の掟がある。それが年齢制限だ。奨励会に在籍できるのは、ごくわずかな例外規定を除けば、基本的には26歳まで。それまでに奨励会を卒業し、四段とならなければ、退会を余儀なくされる。奨励会で誕生日を迎えること、つまり1つ歳を取ることは、退会へのカウントダウンにも等しかった。

 残念ながら、鈴木は奨励会を抜けることはできなかった。

 2013年9月7日。鈴木は奨励会三段リーグで、最後の対局をおこなった。その2日後に迎えた、年齢制限を告げる誕生日。それが鈴木にとって、いい思い出であるはずがなかった。

いとこ同士が決勝戦で当たることもあった

 鈴木は1987年9月9日、神奈川県横浜市で生まれた。幼い頃は母の方針で、体操、テニス、水泳、書道など、多くの習い事をしていた。

 そうした中で将棋に出会ったのは、小学2年の時だった。2歳下の従弟が将棋を指していたのがきっかけだった。

「いとこに負けたくない」

 そうして将棋にのめりこんでいった。身近な誰かの影響で将棋をはじめ、夢中になる。それだけならば、よくある話かもしれない。ただし、この話には続きがある。

 従弟の名は、森村賢平という。熱心な将棋ファンであれば、なじみのある名前かもしれない。森村少年は、恐ろしく強かった。大激戦区の神奈川県において、小学生大会の優勝の常連だった。

 いとこ同士が決勝戦で当たることもあった。優勝は森村。準優勝は鈴木。

 鈴木は何度も小学生大会に出たが、あまりに強い従弟がいたため、神奈川県代表になったことがない。

「彼とは小さい時からずっと指し続けてきました。ずっと彼の方が、少しずつ上だったですね」

 従弟に負けたくないという思いもまた、ずっとあった。しかるべき勝負の場まで、森村とは当たりたくなかった。だから森村と同じ、地元の将棋クラブには通いたくないと思った。

 鈴木は地元からは少し離れた、八王子将棋クラブに遠征するようになった。少年時代の羽生善治も腕を磨いた、名門である。席主の八木下征男は、将棋好きの少年、少女たちに成長の場を与えた名伯楽として知られている。

八木下席主による子どもたちの紹介(画像提供:鈴木肇)

 鈴木が少年期を過ごした1990年代。将棋界では若きスーパーヒーロー・羽生善治が、社会現象になるほど勝ちまくり、注目を集めていた。1996年には、羽生は将棋界初の七冠同時制覇を達成している。

 八王子将棋クラブには中村太地(現七段)、及川拓馬(現六段)、長岡裕也(現五段)、上村亘(現四段)、天野貴元(元奨励会三段)、甲斐智美(現女流五段)など、多くの強い子どもたちが切磋琢磨していた。

「同世代のトップが集まっていましたね。やっぱりそこに憧れて通っていました。自分も強くなれるのかな、と思って」

 1977年にオープンした八王子将棋クラブは、2018年いっぱいをもって、閉じられることが決まった。入居ビルの改修工事や、八木下席主の体調がすぐれないことなどが理由である。

 ニュースを聞いて、鈴木はかつての仲間たちとともに、久々にクラブを訪れた。思い出話は尽きなかった。