韓国では1987年、1月にソウル大学の学生が治安当局の拷問により死亡した事件や、4月に全斗煥(チョン・ドファン)大統領が憲法改正論議の延期を発表したこと(4・13護憲措置)などをめぐり、学生を中心とするデモ隊と機動隊が衝突を繰り返した。
ちょうど30年前のきょう、6月10日には、与党の民主正義党(民正党)が次期大統領候補を選出する全党大会を開催。一方、野党第一党の統一民主党(民主党)と在野勢力はこれにあわせて、ソウルをはじめ22都市で、「ソウル大生拷問殺人隠蔽事件糾弾、4・13措置撤回大会」を予定していた。しかし警察は大会を阻止、これに反発する学生たちが激しくデモを繰り広げ、緊迫が高まる。このとき、ソウル市内だけでも参加者の1割にあたる3800人あまりが連行された。また、大会に参加予定だったキリスト教や仏教、女性団体なども徹夜籠城に入る。このほか、ソウル中心部では車で警笛を鳴らしたり、高層アパートの灯りが一斉に消されたりと、一般市民も政府に抗議の意を示した。この日を契機に、韓国全土にデモが拡大、いわゆる「6月民主抗争」が始まる。
6月14日にはソウル中心部から機動隊が引き揚げ、市内はいったん平静になったものの、各地でのデモは止まらなかった。26日には、野党と在野勢力が全国で「民主憲法奪取のための国民平和大行進」を行なおうとして機動隊と衝突し、ふたたび緊張が高まる。
だが、29日には、民正党の代表委員の盧泰愚(ノ・テウ)が「特別宣言」を行ない、大統領直接選挙制への合意改憲の実現のほか、長らく弾圧されてきた野党政治家の金大中(キム・デジュン)の赦免・復権および政治犯の釈放、言論の自由化などを約束した(6・29民主化宣言)。民正党が態度を一転させた理由のひとつには、翌年にソウルオリンピック開催を控え、国論が分裂し、国際社会の嘲笑を受けることは避けねばならないという思惑があった。また、アメリカ政府のスポークスマンが軍指揮官に政治介入しないように求めるなど、時のレーガン政権の意向も働いたとされる。
いずれにせよ、盧泰愚の宣言を野党は歓迎し、7月1日には全斗煥大統領も受け入れた。新憲法は10月に国民投票を経て制定され、12月に実施された大統領直接選挙では、盧泰愚が金大中、金泳三(キム・ヨンサム)、金鍾泌(キム・ジョンピル)を下して当選する。