ミー(現・未唯mie)とケイ(現・増田恵子)によるアイドルデュオ、ピンク・レディーは、1976年8月にシングル「ペッパー警部」でデビューして以来、新曲を出すたび大ヒットとなっていた。いまから40年前のきょう、1977(昭和52)年12月5日には「UFO」をリリースし、1年間で約155万枚を売り上げ、ピンク・レディーにとって最大のヒットとなる。翌78年12月には日本レコード大賞にも輝いた。
デビュー曲「ペッパー警部」から15枚目のシングル「マンデー・モナリザ・クラブ」(1979年9月)まで、全米デビュー曲である洋楽カバーの「Kiss In The Dark」(1979年5月)をのぞけば、ピンク・レディーの楽曲はすべて作詞家の阿久悠と作曲家の都倉俊一のコンビが手がけてきた。曲づくりにあたっては、まず阿久の決めたテーマやコンセプトに沿って都倉が曲を書き、それに阿久が詞を乗せていたという。
「UFO」について阿久は、謎の巨大な人面像(モアイ像)で知られるイースター島を訪れた際に思いついたとも、よく覚えていないとも語っている(阿久悠・和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』ちくま文庫)。UFOというと当時すでに空飛ぶ円盤というイメージが定着していたが、この歌では直接的にUFOの形状などは描かれていない。宇宙人(という言葉も歌詞には出てこないが)と言葉を介さずにコミュニケーションをとる描写は、スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』より早かったとも、阿久は後年書いている。ただし厳密にいえば、『未知との遭遇』の全米公開のほうが「UFO」発売より1ヵ月早かった(日本公開は翌年2月)。阿久が着想を得たのと時期的にたまたま重なったということだろう。
都倉俊一がシンセサイザーを使ったのは「UFO」が最初だったという。生バンドによる演奏が主流だったテレビの音楽番組でも、ミニムーグ(シンセサイザーの一種)が採用された(『ユリイカ』1999年3月号)。「UFO」にかぎらず、ピンク・レディーのヒット曲はどれも乗りがよく、それに合わせて土居甫(はじめ)がつけた振付は、子供たちがこぞって真似をした。このほか、曲ごとに異なる奇抜な衣裳といい、現在のアイドルを支える要素の多くは、ピンク・レディーによって用意されたといっても過言ではない。なお、ピンク・レディーは1981年に解散したが、その後たびたび再結成している。