羽田空港からバンコクのスワンナプーム空港まで約6時間半。2023年11月初旬、“微笑みの国、タイ”に降り立った。というのも、日本でこの時開催されていた臨時国会で、大麻取締法改正案が審議され、可決、成立する見通しだったからだ。大麻の主成分には、幻覚などの精神作用を引き起こす「テトラヒドロカンナビノール(THC)」と、害が少なく抗てんかん作用などがあるとされる「カンナビジオール(CBD)」がある。海外で大麻由来のCBDを使った抗てんかん薬などが治療で使われるようになり、国内でも大麻草由来の薬の解禁を求める声が高まっていた。この法改正によって何がどう変わるのか。“大麻解禁先進国”のタイの現在を確認するため、向かったのだ。

バンコク市内の娯楽用大麻販売店舗
バンコク市内の娯楽用大麻販売店舗

 バンコク市内スクンビット地区の中心部、アソーク駅にほど近いホテルを朝5時に出発、ドンムアン空港からタイ東北部のブリーラム空港へ。そこからさらに車で1時間。ようやくたどり着いたのは、ヘンプ(大麻)を地元の農業資源にすることを目指している総合ヘンプ事業開発会社「BRパワー」で、同社のチッチャノック・チッチョーブCEOに話を聞くためだ。

「この会社を設立したのは、ブリーラム県の農家に新しい農産物を推奨し、彼らの収入を増やしたいからです」

 緑のロングTシャツに白のオーバーオール、黒のキャップを被った今時の女の子。チッチャノックCEOはそんな姿で目の前に現れた。開口一番、県民の生活を豊かにしたいのだとの想いを口にした。

BRパワー社 チッチャノック・チッチョーブCEO
BRパワー社 チッチャノック・チッチョーブCEO

 ブリーラム県は主要産業が農業で、米、キャッサバ、さとうきびがメインでトウモロコシが少々といったところ。しかし、農家の収入はさほど多くなく、ドリアン、ビーツなどの新たな栽培に着手している農家もあるが、なかなか苦戦しているという。そのような中、解禁された大麻を新たな主力栽培品にすることで、農家の収入アップを図ろうというのだ。

 しかし、新たに栽培するのも容易ではない。大麻にも品種があり、CBDを多く含む品種がタイにはなく、海外から輸入しなくてはならない。しかも、タイの気候、風土に合った品種改良が必要だという。

 さらに、害虫対策や肥育促進のミミズの育成など栽培に関わる全ての開発を同社では手がけている。

「やせ細った土壌を戻すため、インディゴの栽培を合間に加えるといいことが分かりました。土壌に窒素が戻る効果があるんです。ブリーラムは染色産業も盛んなので、これも推進したい」

 有機栽培にも積極的に取り組んでいる。良質な大麻を栽培するためには、土壌改良だけでなく、農薬に弱い面も考慮する必要があるからだという。

「他の農地で散布された農薬が風に乗って大麻畑に飛散するだけで影響が出てしまいます。実は、大麻栽培はなかなか難しい」

 周囲も含めた農地の環境改善にも取り組まなければならず、なかなかの大事業だ。また、有機栽培や寄生虫に有効な虫の研究、育成にも取り組んでいる。チッチャノックCEOは社内のビニールハウスを案内し、「これがその虫です」と笑いながら手の平に乗せ、見せてくれた。

有機栽培に活用される虫
有機栽培に活用される虫

 このようにさまざまな方法を社内で研究開発し、実際に栽培法をマニュアル化することで農家は無駄なく生産収入を得られるという。さらに、農家が生産した大麻を同社が買い取り、加工なども出来るようなシステムの構築を進めている。こうやって積み上げたノウハウは、少しずつだが農家に伝授されている。2022年は12農家が同社で研修を受け、23年は50農家が学んだそうだ。

 チッチャノックCEOは、大麻が衣料をはじめとした日用品に姿を替え、広まっていくことを夢見ている。

「県民が豊かになる。それが第一。そのためには、消費者が日常的に使えるもの、環境にも良く、社会が喜んで受け入れられるものを目指したい」

 翌日、バンコクのホテルから車で高速を走り、約1時間半。バンコクの北側に接するパトゥムターニー県へ向かった。目的地は国立タマサート大ランシットキャンパス。医学部の拠点だ。ここでソムバット・ムンタヴィーポンサー教授と、教授の“片腕”シティポン・ブンマン講師に話を聞く約束を取り付けていた。

国立タマサート大 ソムバット・ムンタヴィーポンサー教授
国立タマサート大 ソムバット・ムンタヴィーポンサー教授

 というのも、タイでは医療用大麻、医薬品としての大麻が解禁になったのが2018年。その後、食品などCBD関連については21年2月で、全面解禁が22年6月。一方、国連麻薬委員会が、医療や研究目的の大麻について、国連条約で定められていた「最も危険な薬物分類」から削除する勧告を承認したのが20年12月だから、これより早いタイミングで解禁に動き出していたのである。

 ソムバット教授は王族医師会の理事であり、神経学者の権威に君臨し、てんかん治療のトップランナーだ。果たして、てんかん治療の現場で、大麻はどのような成果を挙げているのだろうか。

「現在、てんかんで使用するケースは、難病の場合に限られています。てんかんには2タイプの難病があり、一つはレノックス・ガストー症候群。それと、未成年のてんかん。このケースの人が診察に来た場合に、ヘンプオイルを使用します」

 そのワケは、西洋医学の既存薬では太刀打ちできないからだとソムバット教授は語る。通常の場合、西洋医学の薬で治療すると言い、てんかんで大麻を使用した患者の事例は少なく、「私が担当したのは10件もありません」と意外な答えが返ってきた。そして、こう続ける。

医学者として「エビデンス第一主義」を貫いている

「CBD研究の成果がたくさんあるわけではないからです。世界中、国によってルールが違う、環境も違う中で、CBDはこれに効果があると断言できる状態ではない。なので、既存の薬が効かないというところにフォーカスして使用しているというのが現状」

 あくまでも医学者として「エビデンス第一主義」を貫いているのだ。その上で、使用した際にはその結果を論文にまとめ、エビデンスの積み上げに余念がない。論文とは、治験データのようなものだろう。医学者らが、さまざまな試みを重ねて、いずれは医科学的検証データの下に医薬品が出来てくると語る。なお、教授は飲み薬での処方はしないという。

「皮膚から吸収させます。なぜなら、舌下でも腸内でも一度肝臓に入ると8割方成分が分解されてしまうから。効率が悪いのです。皮膚からだと肝臓を通らない。だから私はCBDとパッチといったアプローチの仕方をしています」

 また、教授が使っているヘンプオイル、カンナビスオイルはCBDだけではなく、THCも入っているという。実際に使用してみて一定の効果は見られるものの、治療薬として断定できるほどのレベルにまでは達していないと語る。

 シティポン講師は皮膚科の炎症における専門医で、ソムバット教授の下で大麻医療の振り分けを担っている。患者の症状に応じて、各分野の専門医に橋渡しをする役割りだ。各案件についてマネージメントするプロデューサー的役割りを担っているといっていいだろう。

国立タマサート大 シティポン・ブンマン講師
国立タマサート大 シティポン・ブンマン講師

 シティポン講師は、大学で取り組んでいることは大きく分けて2つだと語る。

「治療とコスメの分野で取り組んでいる。前提として中毒性のないものを確認した上で使用しています。方針として、必ずエビデンスのデータがないと使用しません」

 エビデンス第一主義はしっかりと行き渡っている。ちなみに、シティポン講師の治療はどのようなものなのだろうか。

「たとえば、コロナ禍においてアルコール消毒が至るところで見受けられました。人によっては消毒をすることで皮膚がただれたり、アレルギー症状が出たりとかします。それを研究し、CBDを使って治したり、配合することで症状を抑える。また、帯状疱疹やアトピーが今、タイでは社会問題になっていて、国立チュラロンコン大学と協同して取り組んでいます。CBDは高温に弱く、分解されてしまう。夏場でも分解しないような開発を進めています」

 タイでは大麻の医療用解禁から5年余が過ぎた。この恩恵を受けたのは、研究開発だと教授は語る。

「医療現場で何か効果があった、効能があった、治療に役立ったとは今は言い切れません。自由化によって医療現場が得たものは何か。難病の患者さん、既存の医薬品でどうしようもない状態の患者さんに対して医者は何もすることが出来なかった。その状態の中で、自由化になったので試してみよう。これが本音です。このことをご理解ください」

 あくまでも学術的な論文、エビデンスが揃っていないものは、治療に使ってはいけない。それが原理原則と強調し、自由化のメリットはこれから積みあがっていくと語る。また、22年に完全自由化になったことで、より自由に研究できる環境が整い、今後はさらにデータが出やすくなったという。

 大麻解禁に方向転換した国というのは、医薬品メーカーにとって格好のR&D(研究開発)の国になったということか。

「その通りだと思います。大手を振っていろいろ試してデータを蓄積し、新薬の開発に移る。もちろん、新薬開発には莫大なコストがかかるから今じゃない。しかし、そのうちこの話は現実となるでしょう。私たちのデータを彼らが判断し、そこからいろいろ試して薬になっていく」

 そして、教授はこうも語る。