「いい酒場には〝気配〟がある」

直木賞受賞作家 角田光代さんによる、忘れられない酒場にまつわる書き下ろしエッセイをお届けします。

「永遠の酒場」 

 酒場は永遠ではない。そのことを若いときには知らなかった。というより、酒場に永遠なんて求めなかった。酒場はただ、酒を飲む場所だった。

 酒場は永遠ではないんだなと私が気づきはじめたのは、したしくしてくれていた年長の人たちがいなくなってからだ。たとえば、私がデビューした雑誌の編集長。ずっと年上の先輩作家。私がまだ二十代、三十代のときに、友人といくような居酒屋ではない、赤提灯の老舗やオーセンティックなバーといった、大人の酒場に連れていってくれた人たちだ。

 あの編集長といった店は、あの人が連れていってくれたバーはどこだったろう、あの人が闘病する前、最後にいっしょに飲んだ店はどこだったろう。そんなふうに考えることが増えた。

 それらの店はもしかしたらまだあるのかもしれない。けれども、たとえ店の場所がわかり、店名がわかってそこを再訪しても、私はきっと「ここではない」と思うだろう。

 二十年近く前、ある先輩作家が食事に誘ってくれて、緊張しながら出かけていった。編集者を交えて三人で食事をし、店を出ると、「世界一うまいハイボールを出す店に連れていってやる」と先輩作家が言い、私たちはついていった。そこは立ち飲みの店で、出てきたハイボールはびっくりするほどおいしかった。その先輩作家が亡くなり、私はよくあのハイボールを思い出すようになった。あのお店はいったいどこだったんだろう。

 おいしいハイボールが飲めるとだれもがいう有名な酒場がある。先輩作家が連れていってくれたのは、きっとそこだろうと私は思っていた。

 あるとき友人が、この酒場に連れていってくれた。しかし記憶の店と違う。ハイボールはたしかに、びっくりするくらいおいしい。でも、お店の感じが違う。先輩作家と飲んだ店は一階で、路面にテーブルが出ていて、そこで立って飲んだ。つまみは置いておらず、飲みものはハイボールしかなかった。友人が連れていってくれた有名店は、立ち飲み席もあるが椅子もあり、フードメニュウもある。ここではなかった。

 うすうすわかってきた。編集長が、先輩が、今はいないだれかが連れていってくれた店は、私のなかではもう永遠に存在しないのだ。彼らといっしょだったその時間が、私にとっての酒場だった。私が再訪したいのは、建物でも店でもなくて、その時間なのだと気づいた。

 彼らが連れていってくれた酒場は、永遠に存在しない。けれどもそれはつまり、ひっくり返せば、記憶のなかには色あせず存在し続ける、ということでもある。私が忘れないかぎり、永遠に。
 

角田光代 Mitsuyo Kakuta (作家) 1990年、『幸福な遊戯』で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。2005年、『対岸の彼女』で直木賞、2007年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞を受賞。近著に『方舟を燃やす』『タラント』など。

illustration: tent

 

本作品はウイスキーカルチャーメディア「NORMEL TIMES」の企画「美酒百景」とのコラボレーションエッセイです。

 

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