「いい酒場には“気配”がある」
芥川賞受賞作家 高瀬隼子さんによる、忘れられない酒場にまつわる書き下ろしエッセイをお届けします。

最奥の席

 一人で飲む酒がうまいと気付いたのは働き始めてからだった。学生の頃は仲間と集まって飲む酒が一番うまいと思っていたが、あれはうまいというより楽しかったのだ。

 会社帰りに一人で転々と店を探してまわった。広く騒がしい居酒屋、焼き鳥屋、カレー屋、パスタ屋……そして辿り着いたのが、駅前の古いビルの二階に入ったおでん屋だった。ひげを生やした初老の店主が一人で切り盛りしている、カウンター席だけの狭い店だった。薄暗い店内にくつくつとおでんを煮込む音が響いていた。

 いい雰囲気の店はもちろん好きだが、当時二十代だったこともあり、知らない人からいやに絡まれることもあった。あと数年で不惑の歳を迎える今なら「一人で静かに飲みたいんで」と笑顔でかわせるが、当時は断ることにも抵抗があり、かといってその場限りのおしゃべりを楽しめた経験も少なく、愛想笑いで酒の味が分からなくなるのが常だった。

 狭い店だと絡まれやすいんだよな……と警戒しながらも、だしの匂いにつられるようにして席についた。日本酒、ビールと揃っていたが、店主から「ウイスキーも合うよ」と勧められ、ハイボールを頼んだ。

 飲み始めてすぐに、だいぶ年上の男性に話しかけられ、あーやっぱり一人でゆっくり飲むって難しいのかと思っていたら、その人がトイレに立った隙に店主が「奥の席に移動する?」と聞いてくれた。わたしは最奥の暗がりに潜むようにして座り直し、ハイボールを飲み、鞄から文庫本を取り出して読んだ。物語に集中し、おでんの味に集中し、酒の味に集中した。最高だよこれはと思った。

 それから十年ほど通っていたが、ある時期に仕事が忙しく残業続きになり、店が開いている時間に帰宅できず、半年ほど足が遠のいてしまった。休日もへとへとで寝てばかりいたが、今日こそおでんだ、と重い腰をあげ久しぶりに赴くと、閉店していた。扉に貼られた手書きの「長らくのご愛顧ありがとうございました」を呆然と見つめた。添えられた日付は三か月も前だった。

 その後、近くの美容室で「あのおでん屋さん、心臓発作かなにかで、お店で倒れちゃったんだって。お客さんが救急車呼んで、命は助かったけどお店は続けられなかったそうですよ」と教えてもらった。跡地には別の店が入った。

 わたしのおいしいお酒を守ってくれた、あの店はもうない。もう二度と開かれない。もっと通っていればよかったと後悔しても遅い。今も新しい「いい店」を探し、あちこちの暖簾をくぐる。いい店はたくさんあるけれど、わたしは時々、ハイボールを飲みながら、あの最奥のカウンター席を思い出す。

高瀬隼子 Junko Takase (作家)
2019年「犬のかたちをしているもの」ですばる文学賞を受賞し、デビュー。2022年「おいしいごはんが食べられますように」で芥川賞を受賞。2024年『いい子のあくび』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。近著に『め生える』『新しい恋愛』など。

illustration: tent

 

本作品はウイスキーカルチャーメディア「NORMEL TIMES」の企画「美酒百景」とのコラボレーションエッセイです。

 

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