震災から1年後の2012年3月、小誌は原発の混乱の中、福島で、新たな命を宿した女性たちを取材した。それから10年。震災を知らない子どもたちは今――
夫が津波に呑まれていたらこの子たちはいなかった
渡辺麻美 いわき市内郷
10年前の3月8日に陣痛がはじまりました。しかし全然進まず、誕生日が3.11になってしまうのが怖くて、先生に頼んで帝王切開で産みました。名前は、双葉郡の名所「夜の森の桜並木」から桜の字をとって「桜甫(おうすけ)」です。桜甫は震災について「怖い。親が死んでたら僕は生まれてないから、生きててよかった」と言います。産後は食べもの、特に水道水は、母乳をあげていたので心配でした。今はもう大丈夫とわかっているんですが、未だに私も子どもも水道水が飲めません。原発近くを車で走ると、桜甫は「なんでこの辺汚いの」と言うんです。自分の親が話すのと、授業で聞くのでは実感が違うと思うので、「私たちが生まれた場所で、何があったのか」伝えるようにしています。でも今は世界的にコロナ禍で、いつまでも「自分たちは被災者だ」と言うのも違うと思う。困っている人がいる時は、「こういうことが必要では」と考え率先して動くようにしています。
大好きな地元の“幸”を今はなるべく食べさせたい
吉田美和子 いわき市泉町
予定日は3月11日だったのが2週間早まって、2月27日生まれです。名前は、亡くなった私の父の名から「正」の字をとって正碧咲(まあさ)と付けました。いわきには、代々伝わる新盆の弔いの風習「じゃんがら念仏踊り」があります。父の新盆でじゃんがらが家に来ている時に、この子の妊娠がわかりました。正碧咲の見た目に父の面影はないけど、大雑把だったり、活発なところは似てるかもしれません。震災の話をすると正碧咲は「その時に生まれてなくてよかった」、1歳上の姉・碧音(あおね)は「体験してみたい」と言います。出産後、福島の食材は放射線が心配で。小学校の給食では地元のものを使うという話があって、最初は正直なところ不安でした。でも給食センターを視察した時、ちゃんと検査をしていることがわかり、考えが変わりました。今はなるべく地元のものを食べさせるようにしています。風評被害はまず、地元の人が地元のものを食べないとなくならないと思います。
不確かな情報ばかりの中で、家族を守るため必死だった
髙橋さおり 伊達郡川俣町
3人目の息子「陽名(ひな)」は3月14日生まれ。この前「僕ってなんで陽名なの?」と聞くので、「どうしてだと思う?」と返したら「太陽みたいに元気いっぱい、明るくって意味だと思う」って。笑顔を絶やさないムードメーカーで、「この子がいなかったら家族はどうなってただろう」と思うぐらい、家の中心的な存在です。私たちは震災直後、約2年間米沢に避難していました。慣れないうちは不安で、「ここからどうなっていくんだろう」と、隠れて何回泣いたかわかりません。避難したお母さん、したくてもできなかったお母さん、福島に残ることを決めたお母さんと、それぞれ家庭の事情や考え方で行動は違います。でも誰一人、間違った選択はしていなかった。あの時、福島の母たちは家族を守るため、どの情報が正確なのかわからない中、必死に動いていた、ということはわかって欲しいです。そして、避難先の米沢で「頑張ろうね」と寄り添ってくれた人たちには、今も感謝しかありません。
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source : 週刊文春 2022年3月24日号