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日本赤軍・重信房子 “指導者”が明かした「知られざる獄中生活」

「社会活動家としては間違っていた」「テロリストのレッテルを剥がして」と漏らし……

「週刊文春」編集部

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「よく生きて出てきたなという感じが強くあります」

 感慨深げな第一声だった。

 21年7カ月ぶりに塀の外に出た日本赤軍の元最高幹部・重信房子氏(76)は、詰めかけた報道陣およそ100人を前にこう語った。

 5月28日午前8時前、重信氏は懲役20年の満期を迎え東京昭島市にある東日本成人矯正医療センターを出所した。白いシャツの上に灰色の上着を羽織り、黒い帽子を深く被る。「WE♡FUSAKO」の横断幕を掲げた支援者らの出迎えを受けると、マスク越しでもわかる笑みを浮かべ、渡された花束を手に車に乗り込んだ。

 向かった先は車で2分ほど離れた住宅街の一角にある小さな公園。ここで囲みの記者会見を行ったのである。

21年7カ月にも及ぶ獄中生活

 強い日差しが降り注ぐ中、娘の重信メイ氏と代理人の大谷恭子弁護士に両側を支えられながらもしっかりとした足取りで報道陣の前に現れた重信氏。

「わざわざここまで……驚いています」

 そう言って、約10分間にわたって記者会見に対応した。

 印象的だったのは、謝罪の言葉が飛び出したことである。

「多くの人たちにご迷惑をお掛けしたことをお詫びします。50年前、自分たちの戦闘を第一にしたことによって、見ず知らずの無辜の人たちに対しても被害を与えたことがありました。そのことについては、古い時代とはいえこの機会にお詫びします」

 その後は、時折言葉を詰まらせながらもハキハキとした口調で記者たちからの質問に答えていた。

娘のメイ氏と大谷弁護士とともに現れた重信房子氏
囲み会見では時折、柔らかい表情を見せた

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 1969年から赤軍派で活動していた重信氏。パレスチナ問題への関心を高め、1971年、25歳の時にレバノンへ出国し、現地で日本赤軍を結成した。

 その後、日本赤軍は“革命運動”を活発化。1974年にはオランダのフランス大使館を占拠する「ハーグ事件」、1975年にはマレーシアの米国大使館を占拠する「クアラルンプール事件」を起こした。さらに、1977年の日航機をハイジャックした「ダッカ事件」では、乗客を人質にとって政府と交渉し、服役中の日本赤軍メンバーたちを超法規的措置で釈放させている。

「ハーグ事件」への関与で国際指名手配された重信氏は逃亡を続け、偽造旅券で日本に入国。2000年11月、潜伏先の大阪府で逮捕された。裁判では殺人未遂などの罪に問われたが、一貫して無罪を主張。2006年に懲役20年の判決を受け、2010年に刑が確定していた。

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横断幕を持つ支援者を背後に大勢の報道陣に囲まれる

 21年7カ月にわたった獄中生活。重信氏はどのような生活を送っていたのか。

 服役終盤の重信氏を知る人物がいる。2021年7月から3か月間にわたり「特別改善指導」を担当した「あひる一会」代表の片山徒有さん(65)である。

 片山さんが重信氏の様子を振り返る。

「曖昧な表現を避けていて、ごまかさない性格」

「初めてお会いした時、すごく緊張されていたのを覚えています。刑期の後半にも関わらず『この期に及んで何か変なことをされるんじゃないか』という不安や恐れがあったみたいですね。刑務所では基本布マスクが支給されますが、重信さんは支援者が差し入れた不織布のマスクを使用していた。服装にも気を付けているようで、折り目がキッチリとしていて清潔に見えました。

 指導は、週1回1時間。全部で9回実施しました。重信さんはご年配にも関わらずしゃきっとしていてハキハキと話される。自分が話すことで誤解を生まないよう曖昧な表現を避けていて、ごまかさない性格なのだと感じました。

 改善指導は受講を拒否することもできます。拒否すると一般的には出所が遅れますが、満期を迎える重信さんには関係がありません。だから私の指導を受けなくてもよかったわけですが、それでも受けたのは教育を受けること自体に前向きだったのではないかと思います」

 指導は再犯の防止や就労支援が主な目的。「毎回真剣勝負でした」と話す片山さんは、A4サイズのレジュメ1枚を用意して重信さんと向き合ったという。

「これまで担当した他の受刑者の場合、『出所したら食べたいもの』などについて話すことが多かったのですが、重信さんとは社会論とか戦争の在り方などをメインに話しました。『国や社会に対して思うこと』『最も感動したこと』『一番残念だったこと』などのテーマもありました。『社会活動家として成功したか』というやや意地悪な質問もしましたが、『間違っていたと思う』と答えていました」

 終始、淡々と受け答えをしていた重信氏だったが、一度だけ感情を露わにした瞬間があったと、片山さんは明かす。

「『伝えたいこと』をテーマに話した回でした。重信氏は『テロリストというレッテルを剥がして見て欲しい』と熱弁したことがありました。私はその時、山口淑子さんのインタビューを受けた際に重信さんがライフル銃を傍らに置いていたことを取り上げ、『平和活動家ならライフルは持たなくてよかったんじゃないですか』と聞いたんです。すると『それは違う。ライフルは武器ではなくシンボルだ』と強く反論したのです。本人は今でもあのことは悪いと思っていないんですよね。そういうところは曲げない方でした」

公園を去り際、花束を手にこちらに視線を向ける

逃亡を続ける幹部には「生き抜いてほしい」

 重信氏は服役中に癌の手術を4回受けているが、出所後の会見で再びポリープが見つかったことを明かしている。記者から今後について尋ねられると「まずは治療と学習」と述べていた。

「社会に馴染むための努力をしたいということでしょう。スマホの使い方もご存じないでしょうし、多様性やITについて身をもって体験したいのだと思います。この20年で知らないことがたくさん出てきましたから。入所中は朝日新聞1紙だけしか読むことができず、他の新聞も読みたいとこぼしていました。再び活動するかどうかは別として、社会に対する興味がとても強い。自身の影響力の大きさも理解しているようでしたし、しばらくは大人しくしていたいという気持ちがあるのではないでしょうか」(同前)

警官が制するも迎えの車まで向かう道中は大混乱に
車が発車する直前、手を挙げて応える

 重信氏はすでに2001年に日本赤軍解散を宣言している。だが、出所にあたり公開された手記では、現在も逃亡を続ける7人の幹部らに対し「必要とされる場で生き抜いてほしい」と記していた。警察当局は引き続き警戒を続けるという。

(撮影・釜谷洋史)

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source : 週刊文春 電子版オリジナル

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