「密使」と呼ばれた男は暑い夏の日、自らその命を絶った。知られざる交渉の内幕を明かした著書はいかにして生まれたのか。彼が日本の未来を託した男とは一体、誰だったのか。沖縄返還から51年目の深層レポート。

 初代国家安全保障局長の谷内正太郎の脳裏には、今でもその場面だけは焼き付いている。30年ほど前、1996年5月頃のことだった。

「一泊しよう」。そう誘ってきたのは、当時、外務省大臣官房審議官という要職にあった谷内が“師”と慕う男性だった。行き先は静岡県伊豆市。おぼろげながら記憶しているのは、眼前にワサビ畑が連なる美しい山間の別荘で、酒を酌み交わしながら語り合ったことだという。

 一夜明け、帰路に向かうJR熱海駅。記憶の輪郭が色彩を帯びてくるのは、ここからだ。構内アナウンスと共に、ホームに滑り込む東京行きの新幹線。谷内が車内に乗り込み、扉が閉まるまで1分足らずだっただろうか。見送りに来た“師”はその間、真剣そのものの表情で手を合わせ、一言こう告げたのだった。

「日本国を頼む」

 谷内は、ただただ頭を垂れるほか無かった。

 それから約2カ月後の7月27日。谷内に日本の未来を託した男――若泉敬は、故郷の福井県鯖江市で自ら命を絶った。太陽が燦燦と照りつける暑い夏の日だった。

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source : 週刊文春 2023年5月4日・11日号