花村康一が最初に異変に気がついたのは、ゴールデンウィーク明けのことだった。
研究室の扉の横の照明のスイッチボタンの上に、直径一センチほどの赤いシールが貼られていたのを見つけた。それまでなかったものだったが、気には止めなかった。老朽化した建物内に設けられた映画学科の研究室は教授四人の相部屋で、誰かが何かの目印で貼ったのだろうと思っていた。
翌週の月曜日、午前中の講義を終えて研究室に戻ると、同じ赤い丸シールが花村の室内履きの右足の甲の上についているのを見つけた。黒の合皮の室内履きは花村の机の下に置いているもので、研究棟から外に履いては出ない。花村は照明スイッチの上のシールが剥がれて室内履きに貼りついたのかと思ったが、入り口脇のスイッチを見ると、赤いシールは変わらず貼られたままだった。どこの文房具店でも百円ショップでも手に入る類のシールだ。しかしそもそも、何の目印だったのだろう。十畳ほどの研究室の天井の蛍光灯を点灯させるスイッチは入り口脇のそれ一つだけで、他と判別させる必要もない。しかしその日、同室の教授は脚本家の青柳氏もプロデューサーの宗田佳織氏も出勤予定がなく、話す相手もいなかった。録音技師の竹岡勉氏は年明けに脳梗塞で倒れてから、休職していた。花村は室内履きのシールを剥ぎ取って指先で潰し、ゴミ箱に捨てた。
その後十日間ほど、花村は企業PRビデオの撮影の仕事で地方へ出ていて、休講した。天候トラブルでそれなりに苦労しながらも何とか撮り終えて戻り、翌日午前から大学に出勤した。スイッチの上のシールを見て、微かな緊張を覚えたが、机の下に揃えられた室内履きには何もついてはいなかった。ところが、午後の実習を終えて研究棟に戻ると、同じ階の給湯室の戸棚から取り出した花村のステンレスのマグカップに『怪傑ライオン丸』の主人公のシールが貼りつけられていた。およそ半世紀も前、花村が小学生の頃にテレビ放送していた変身ヒーローものだが、仮面ライダー派だった花村にライオン丸への思い入れはない。しかしサーモス社の持ち手付きの断熱性マグカップは、確かに花村の私物だった。そのカップのど真ん中で、全長約八センチ、真っ白いたてがみをなびかせた巨大な頭のライオン丸が、剣を高らかに掲げて直立していた。花村は電子レンジの黒い扉にぼんやりと映った自らの顔を見つめた。オールバックの白髪の長髪に、伸びたヒゲ。眉間に刻まれた深い皺。これは俺なのか――花村は、そこで初めて、自分に対して何かの作為が向けられていることに気がついた。
夕方、映画学科の教職員八人の集まる会議があり、在任歴が休職中の竹岡氏の次に長い花村はいつものように中心になって進行と発言をしたが、例の丸シールとライオン丸については言及しなかった。解散する頃には日が暮れており、脚本家の青柳氏は会議室から直帰したが、一緒に研究室に戻ってきたプロデューサーの宗田氏に、スイッチの上のシールについてそれとなく尋ねてみた。
「あ、私も気になってたんです。花村さんじゃないんなら、青柳さんが貼ったのかな」
「他のところにも貼ってあったりしませんでした?」
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source : 週刊文春 2024年10月31日号