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「八王子」が「住みたい街」2位になれた理由――多摩の“首都”は「立川」ではない?

歩いて分かった「買って住みたくなる」4つのポイント

2019/04/12
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「八王子駅周辺で買い物が完結します」

八王子に住んでいいなと思ったことは山をはじめとした自然と町が近いことです。買い物も普段使いのものであれば十分にお店はあり、八王子駅周辺で買い物も完結します。以前住んでいた松戸よりも便利だと感じますね」

 確かに、家を買う世代は子育て世代やシニア世代が多いことからしても自然環境が豊かなのは大きな魅力だ。市内には浅川が流れ、ハイキングで人気の高尾山もある。車を使えば中央道経由で富士五湖や甲府盆地、圏央道経由で伊豆や箱根といった観光地に気軽にアクセスできるのは大きな魅力だ。

 買い物環境で見ても百貨店こそないが、大型商業施設としてはJR八王子駅の南北に建つ駅ビル「セレオ」をはじめ、「八王子東急スクエア」、「K-8」、「OPA」、「ドン・キホーテ」があり、若者向けの店は多い。また、実は八王子市は市内に21もの大学がある学園都市で、市民の男性も「駅周辺を歩く人は若い人が多い」という。

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こちらは夜の三崎町、客引きも多い

明治時代から「織物のまち」として栄える

 こうした駅前を中心に構成された市街地は戦後に発展・形成された。

 江戸時代から八王子の市街地は甲州街道沿いに開けており、モノの集積地として市場があった。市場があったのは駅の真北の甲州街道沿いにあたる横山町とその西でユーロードと甲州街道が交わる八日町だ。明治時代から生糸や絹織物の輸出が盛んになると、八王子は織物のまちとして栄える。その理由は大きな市場を持ち、輸出港の横浜にも近く、周辺の農村から生糸を仕入れることができ、かつ浅川の水を利用することができるという条件がそろったためだ。

 1930年に駅から放射状に伸びる道路のうち2本が入った都市計画が決定される。しかし、財政上の事情から実行に移されたのは第2次世界大戦後の1949年の戦災復興都市計画事業5カ年計画による事業を待たなければならなかった。

 戦後の八王子は1970年代前半まで織物のまちとして栄え、生産額も最盛期を迎えた。その頃までは、戦前から引き続き八日町や横山町の商店街が市街地の中心であった。1970年頃から段々と、商業の重心が横山町と八王子駅北側に移っていく。これは八王子市全体がベッドタウン化して駅の重要性が高まったことや「伊勢丹」・「大丸」・「西武」といった百貨店、「ダイエー」・「長崎屋」などの総合スーパーが相次いでエリア内に開業したことが理由だ。

現在のJR八王子駅周辺の地図(筆者がopenstreetmapをもとに作成)

 さらに駅周辺に商業の中心が移った決定打が1983年に駅ビルと共に開業した「八王子そごう」だ。バスと鉄道が結節する抜群の位置に「そごう」が開業したため、少し離れた「大丸八王子店」は1985年、「八王子西武」は1993年に閉店する(「伊勢丹八王子店」は1979年には閉店していた)。それからは更に駅周辺に商業施設が集積していく。1997年に「八王子東急スクエア」が北口に開業し、2010年に「セレオ八王子南館」(開業当初は「セレオ八王子」)、2011年に「ドン・キホーテ」(「長崎屋」から業態転換)、2012年に「そごう八王子」跡地の「セレオ八王子北館」、2018年に「OPA」と相次いで八王子駅周辺に大型商業施設がリニューアルないしは新規で開業した。

駅前に立つ複合商業施設「東急スクエア」。1997年に開業した

 このようにまちの構造が平成に入る前後から駅周辺を中心として大きく変化したことが八王子の現状を見る上で大きなポイントである。

 そしてさらに、実はまちの構造変化は八王子が「買って住みたい街」上位に来ている大きな理由となっている。