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「ジャックナイフみたいだった」メルカリCEO山田進太郎を変えた出会い

メルカリCEO・山田進太郎インタビュー #2

2019/06/13
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孫正義もいた「ビットバレー」からの刺激

 大学時代の後半、山田にはリンクス以外にも居場所が幾つもできていた。別のメンバーとマンションの一室を借り、そこではCD-ROMで配布するデジタルマガジン『A/D』の制作に没頭した。早稲田大学の演劇・音楽・美術系のサークル活動を動画と文章で紹介する内容で、山田が3年生になった1998年4月に初号を発行している。

 翌年には映画好きが高じて、個人で「映画生活」という映画の批評・口コミサイトも立ち上げた。

 時はネットバブル全盛期。山田はお祭り騒ぎの渦中にいた。

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©文藝春秋

 この時期は、1976年前後に生まれたネット起業家、いわゆる「ナナロク世代」が動き出した時代で、山田が4年生だった1999年には、後にSNSの「mixi」を作った笠原健治が起業。翌2000年2月には渋谷発のネットベンチャーのムーブメント「ビットバレー」の決起集会とも言えるイベントが東京・六本木のヴェルファーレで開かれ、孫正義が「3000万円もかけてチャーター機で駆けつけました!」と挨拶した。

 怒号とも言える歓声が響くその熱狂の中に、山田の姿もあった。当時から、笠原や、同じく「ナナロク世代」で後にグリーを立ち上げた田中良和などと交流があり、刺激を得ていた。

 しかし同時に山田は、彼らの熱狂との間に若干の距離も感じていた。

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就職も考え、楽天に内定していた

「ナナロク世代の先輩は1~2学年上で、僕は後輩という意識が強かったし、先輩たちはインターネットを信じて覚悟を決めていた感じだったけれど、僕は起業家として成功したいという思いが彼らに比べて弱かった。けっこう保守的で、就職しようとしていたくらいですから(笑)」

 実際、一時は楽天に内定し、インターンとして「楽天オークション」の開発に携わったこともある。だが卒業直前、「やっぱり僕も先輩たちのように、自分で何かを作りたい」と考え直し、内定を辞退した。

(文中敬称略)

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