時はインターネット黎明期。早稲田も学生のインターネット利用を強化し始めた時期で、山田は引きこもりがちになりながらも、学校や家のパソコンを通じてインターネットの魅力に取り憑かれていた。そして、その魅力や面白さを仲間と共有できる「居場所」が見つかったのだ。
「代表やるなら進太郎だよね」
ウェブメディアの運営を中心とする公認サークル「早稲田リンクス」。テレビ局や新聞社などに内定した4年生が、学生・OB・地域を絡めた「早稲田の交差点」を目指し、山田が入学した年の10月に発足させた。
ウェブサイトやメーリングリストの構築や管理に長けていた山田は、知人の紹介で入るとすぐに溶け込み、技術面で八面六臂の活躍を見せる。そして2年生の時、山田はリンクス3代目の代表となった。
代表になったのは、たまたまだ。先輩が就職活動に入るので代替わりを早めたいとなったが、2年生を見渡せば、男子はたった2人しかいない。「もう一人」の男子だった矢嶋聡は、当時をこう振り返る。
「広告研究会の縦割りや体育会系のノリが合わないなと思っていたところに、新しいインターネットというメディアで面白いことをやろうとしていて、フラットで牧歌的な雰囲気のサークルがあると知り、入ったんですね。広研にいた女子もドサッと引き連れて。だから僕も女子もオアシスを見つけたような感覚で、ガツガツやる感じではなかった」
「でも進太郎はサイトのデザインとかリニューアルを率先してやっていて、代表やるなら進太郎だよね、と必然的に決まりました」
矢嶋は卒業後、ネットベンチャーの立ち上げに関わり、米国留学などを経て2008年、LINEの前身であるネイバージャパンに入社。リンクスの同期で山田以外にネット系企業へ進んだのは矢嶋だけである。
彼は大学当時、「早稲田ウォーカー」というウェブマガジンの責任者だった。例えば早稲田にある有名な弁当屋「わせ弁」のメニューを食べ比べてリポートしたり、毎月「ワセジョ」をピックアップして、インタビューをしたりしていた。
一方、代表に就いた山田は、そのコンテンツ開発を強化すると同時に、それまで曖昧だった部門の役割や職掌を明確にし、あのアイセックなどから優秀でモチベーションの高いメンバーを何人も連れてきた。
教科書や参考書を学生同士で売買できるコミュニティや、就活生が情報共有できるサイトも洗練させ、組織運営や規模拡大の楽しさに取り憑かれていった。