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【追悼】中村哲医師「ペシャワールに赴任したきっかけは、原始のモンシロチョウを見たから」

「新・家の履歴書」より

2019/12/05
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宴会客のドンチャン騒ぎから避難して近所の姉の家で受験勉強をしていた

 ただ、子供の頃はそれでも良かったのですが、高校時代は辟易(へきえき)とすることもありました。私の狭い部屋は壁ひとつ向こうが宴会場で、試験の前日でも夜遅くまでドンチャン騒ぎが続くんですよ。

 当時の労働者には命からがら戦地から復員してきた世代が多く、彼らは酔うと盛大に軍歌をうたい始める。手や茶碗を叩き、踊り、大いに羽目を外すものですから、大学受験の時は近所に嫁いだ姉の家に机を置かせてもらい、勉強をしていました。

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 一浪の後、九州大学の医学部に入学。1973年に卒業してからは、佐賀県にある国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)の精神神経科にまず勤務した。

中村哲さんが乗車していた車の窓ガラスに残された弾痕 ©AFLO

 子供の頃、私は虫や蝶の観察が好きだったので、本当は農学部の昆虫学科に行ってファーブル先生のような生活をするのが夢でした。しかし、固い父親からすれば、昆虫学といってもただの遊びにしか聞こえなかったでしょう。

 医学部に進んだのは、医師になりたいと言えばその父の許しが得られると思ったからでした。その頃、ちょうど地方の無医地区の問題がクローズアップされていましてね。自分は医師になって日本国のために尽くしたい。そう言えば表向きは立派です。それでも昆虫学者の夢が諦めきれなければ、後から農学部に転部すればいいと考えたわけです。

 しかし実際に医学部に入ると、国立大学とはいえ高価な医学書を何冊も買わなければなりません。それを父が借金をして買ってくれるのを見ているうち、転部の気持ちはなくなっていきました。親から受けた義理、恩を立てないと親不孝になる。そう思い、医学部を出ようとはっきり心に決めたんです。

 最初、神経科に入ったのは、人間の精神現象に興味があったからです。実は高校の頃の私は極度のあがり症で、教師に当てられただけで汗がわっと吹き出し顔が赤くなる。女性が前に座っていると自然に振る舞えなくなり、固まって動けなくなるくらいでした。そのことでずいぶん悩み、それで哲学の世界を齧(かじ)り始め、読書に没頭していった過去のいきさつもありました。

 一人暮らしを始めたのは、そうして国立肥前療養所に勤務するようになってからです。病院は佐賀の山中にあり、周辺には空き家の百姓家が多かった。そのうちの一軒を借りていました。家は人が住まないと傷むということで、家賃はなし。食事は病院で食べていたので、帰ってきて寝るだけの場所でしたけれど。

 あの頃はうつ病や統合失調症の患者の話を、とにかく聞き続ける日々。カウンセリングでは相手の世界をそのまま受け入れ、会話するのが鉄則です。相手に寄り添うようにして、ただただその人の気持ちを理解しようと努める。

 その経験から私は多くを学んだと感じています。後にアフガニスタンで文化も風習も異なる人たちと接する際、大切なのは彼らの生きる世界を受け入れ、自分の価値観を押し付けないことです。単に違いであるものに対して、勝手に白黒をつけてしまうことが様々な問題を生む。そう考える癖がつきました。