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ある老人の執念がこの本を書かせた

『無私の日本人』 (磯田道史 著)

2012/11/16

source : 本の話 2012年12月号

genre : エンタメ, 読書

note

『無私の日本人』は、わたしの奇妙な体験からうまれている。説明するとこういう経緯である。『武士の家計簿』を書いてから10年ちかくが経ち、この作品は映画化もされた。映画はさすがに故森田芳光監督によるものだけあってヒットして150万人もの人が見てくれた。幕末に加賀藩ソロバン役人の猪山家という武士が借金を抱えたことにより家族が一致団結し、質素倹約をはじめる。見栄っ張りで華美な消費をやめて、地道に働き、子どもをしっかり教育して、明治維新という新時代の成功者になっていく「解決」の物語であり、『武士の家計簿』は原作も映画も作品としては、これ以上ないほどに、幸運な道をたどった。申し分ないはずであった。

 ところが、わたしは、どうも落ち着かない。映画が悪いというわけではない。『武士の家計簿』で書いた「苦境に至った時、人は現状を嘆いても仕方がない。人に必要とされるような技術・知識を身に着けることで生き延びていかなくてはならない」という原作のメッセージ自体は、いまでもその通りだと思う。しかし、あれは「解決」なのだろうか、と思ったのである。倹約して猪山という1個の家族が豊かになっただけで、本当は何の解決にもなっていないのではないか。幕末日本の本当の問題は、武士の国家というものが、戦もないのに多量の人員を抱え、将来の幸福にはまったくつながらない、形式的儀礼に農民から取り立てた年貢を費やしつづけていた、ということであった。しかし、猪山はそのことに何の関心ももたない。ひたすら勉強して子供をよい学校に入れ、就職させ、ともかく自分の家族がしっかり食えるようにすることに関心をもっていた。

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 結局、『武士の家計簿』は、自分の家族が食べていけるか、であって、日本全体がどうなるか、という広い視点はなかった。猪山家の「解決」にはなっているけれども、日本の解決にも人類の普遍的な解決にもなっていない。どこか間違っている。どこか足りない。そう思うようになった。そこへきて、この10年で、この国をとりまく環境が大きく変わった。中国の国内総生産は4倍になり、韓国の国民1人あたり所得はあと10数年で日本を追い抜くという試算までが出るようになってきた。中世以来、日本は500年ぶりに大陸より貧しくなるかもしれない。日本人の生き方の哲学が問われている。