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連載昭和の35大事件

「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

「トンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」

2019/12/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

note

スパイ群を動員して、挑発政策を強行

 すでにみたように、昭和5年武装メーデーの場合、田中、佐野の方針がもつ極左冒険主義を利用し、その上にたってスパイ西山らが全協を指導し、全体を動かしていったのであった。これと似たことは、その後もつづいておこった。たとえば、党の方針に反し、その指導を拒否し、7年3月の東京地下鉄ストライキを孤立化させ、同年メーデーに尚も「独自」デモの方針を強行しようとしたのは、スパイ松原こと宮上則武や平安名常孝らであった。

 また5月3日夜、岩手県気仙郡の鉄道工事飯場で、日本土建労働組合常任康有鴻他3人が暴力団の手で虐殺された時、極左妄動的方針を強制して曹今同(光州学生事件に参加し芝浦で自由労働者となり関自に入る。戦時中党再建運動に参加し獄死す)はじめ、積極的分子を死地においこもうとしたのは、後日、村上多喜雄に射殺された日本土建委員長尹基姜であった。

 同年夏、日本共産党は、従来の社会主義革命の戦略を、強行的に社会主義革命に転化するブルジョア民主主義革命、という正しい戦略にあらため、天皇制に対する闘争方針をはっきりうちだした。これを恐れた支配階級は、弾圧を強化すると同時に、とっておきのスパイ群を動員して、憎むべき挑発政策を強行させた。その頂点ともいえるのが、10月6日の大森の銀行ギャング事件であった。

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 これは、田中清玄時代から党中央に巣喰い、風間らによる再建後、中央委員として、国際・組織・軍事の各部長を歴任し、家屋資金局長だったフヨドロフあるいはM【エム】こと松村(本名は飯塚盈延とう現役憲兵将校だったといわれる)の計画と指示によるものであった。またこの当時、党中央にいた大泉兼藏や小畑達夫も、特高のスパイであった。さらに、片山潜の秘書格と自称した勝野金政その他がスパイ・裏切者であり、さらに、この時代の日本革命運動に絶大な影響を与えた山本懸蔵やクニサキ・テイドウらが、共に「奇怪な人物」であったことも後日歴史は明らかにしたのである。

田中清玄 ©文藝春秋

「武装メーデー」という痛苦な歴史の一頁

 しかし、歴史はもっと重大な真実と真理を明らかにした。すなわち、日本人民は、支配階級のどんな弾圧・陰謀・挑発にも耐え、平和と生活安定と民主主義のために闘い進むこと、共産党は、日本人民のこの要求を実現し同時にこれを、その終局的解放と結びつけるために献身したこと、そして、共産党がマルクス・レーニン主義理論を正しく日本の現実に適用した時にだけ、人民との結合を強め、敵の弾圧と挑発をもうちくだき、その任務と目的を達成できるのであり、逆の場合は逆の結果をうむこと、等々を明らかにしたのである。

 日本共産党は、本日その33周年記念日を迎えた。

 今日なお、不幸にして一個の被除名者にとどまる私は「武装メーデー」という痛苦な歴史の一頁をここにふりかえってみて、今更のように、厳粛な歴史の教訓に胸をうたれながら、名もなく、ある場合、無実の罪をきながら死んでいった多くの人々、無名戦士の墓(正しくは「解放運動無名戦士の墓」。「女工哀史」の著者細井和喜蔵の基金により献立。青山墓地にあり、本年で合葬すること7回、合葬者2000名に近し)にさえ名を止めぬ、文字通りの無名戦士に終った同僚に、はるかに、やくような愛惜と尊敬の心をおくっているのである。

(7月15日夜)

※記事の内容がわかりやすいように、一部のものについては改題しています。

※表記については原則として原文のままとしましたが、読みやすさを考え、旧字・旧かなは改めました。
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「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

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