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作家となった上原善広にできることは、被差別部落で育った父を描くことだった

石井光太が『路地の子』(上原善広 著)を読む

2017/08/28
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『路地の子』(上原善広 著)

 きっと著者の上原善広は、この作品を書くために作家になったのだろう。

 冒頭数ページを読んだ瞬間、私は鳥肌が立つのを感じながらそう思った。そして四十歳を過ぎて行った新たな文体の冒険に心を打たれた。

 本書は、上原の父・上原龍造の一代記である。戦後まもなく、龍造は大阪の被差別部落=路地で生まれ、貧困と差別と隣り合わせで育った後、食肉の解体業へ身を投じ、成り上がった。

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 ――金さえあれば差別なんてされへんのや。

 龍造はそんな思いで食肉卸「上原商店」を二十八歳で開業。だが、路地での成功はいばらの道だった。同和利権を独占する解放同盟とぶつかり、右翼や暴力団と渡り合い、時にはナイフや拳銃を突きつけられる。裏切り、薬物、暴力、姦通、死……。

 上原商店は利権を手に入れて大きくなっていくが、龍造の心は路地の人間関係の中で少なからず歪んでいったのだろう、愛人が出入りする家庭は、暴力が蔓延する「火宅」だったという。家庭のしわ寄せは、弱者である子供に向く。善広は成人してからもそのトラウマにもがき苦しむような生き方をし、ついには自殺未遂を引き起こす。

 いつか善広は父と正面から向き合い、過去を清算する必要があったにちがいない。作家となった彼にできるのは、父を題材にすることだった。

 だが、描くべくは父の年表ではなく、路地を覆い尽くす宿命と血気だ。人間と利権の混沌、とば(食肉処理場)にへばりつく血や脂の匂い、人々の生への渇望。そして冷徹な死。善広がそれを描くために生みだした新しい文体は、見事なまでに成功している。

 作家には、一生の中で書かなければならない作品というものがある。本書はまさにそれであり、読者は著者がぶつけてくる熱量に圧倒されるはずだ。だが、この強烈なエネルギーこそが、善も悪もすべて含めた路地の現実なのだ。

うえはらよしひろ/1973年大阪府生まれ。ノンフィクション作家。『日本の路地を旅する』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『発掘狂騒史』『被差別のグルメ』『カナダ 歴史街道をゆく』などがある。

いしいこうた/1977年東京都生まれ。作家。近著に『世界の産声に耳を澄ます』『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』などがある。

路地の子

上原 善広(著)

新潮社
2017年6月16日 発売

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作家となった上原善広にできることは、被差別部落で育った父を描くことだった

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