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「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの

「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの

“第一報”めぐり揺れた「暁に祈る」事件 #2

2021/04/04
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「暁に祈る」事件と同調圧力

 元隊員の証言などを見ていくと、私にも「暁に祈る」が架空の出来事や事実無根だったとは思えない。抑留や捕虜収容所といった、極めて特殊な極限状態であっても、他と比較して、当時の吉村隊の状況が決して尋常だったとはいえないだろう。

 吉村隊長こと池田重善という人は、元隊員も認めているように頭がよく、有能だったと思える。しかし、元憲兵曹長という経歴から透けて見えるのは、冷静沈着で人心掌握術にたけ、謀略的な半面、温情や包容力は乏しい人間像。少なくとも、捕虜収容所での捕虜の隊長という職責にふさわしい資質とは思えない。

朝日の訃報。ベタ記事だが、異様に長い

 ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会・編集・発行「捕虜体験記6 ザバイカル地方・モンゴル篇」「モンゴル地区」の江口十四一「序にかえて」には、「(シベリア)の各地区とも、何らかの形で政治教育(思想教育=民主教育)が日本人アクチヴ(活動家)によって行われたことが述べられているが、モンゴルではそれがなかったという記録は印象的である」と書かれている。モンゴルでは日本軍の組織が温存されていたということだろう。

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 そこで、下士官が将校を差し置いて隊長になるには、恐ろしいほどの緊迫感と策略が必要だったに違いない。人望など、とても考えてはいられない。そういう意味では、「出世欲が強かった」と元隊員が口をそろえる池田にとっても、隊長になったことは決して幸運ではなかった気がする。

元吉村隊員による証言記録の1冊の口絵(有賀藤市「暁に祈る」より)

「暁に祈る」がいまの私たちに教えるものは何だろう。それは、当初よく言われた日本人や日本社会の分析より、ある状況下で私たち一人一人の主張がどうあるべきか、なのではないだろうか。

 吉村隊の隊員たちは、多くが隊長を批判しながらも、表立って反対することはほとんどなかった。戦後、事件が話題になっても、多くの隊員は口が重かった。それは、それぞれが当時の「心ならずも沈黙していた」自分に忸怩たる思いがあったからだろう。だから、振り返りたくなかった。

 それから70年余り、コロナ禍などでは「同調圧力」が指摘される。もし自分の周りで、吉村隊長のような人物と、それを取り巻く多数がある方向に動く場合、もし、自分がそれに反対だったり異議があったりしたら、自分の意見と行動をどうするだろうか――。難しい問題だが、その意味で「暁に祈る」はいまも検討に値するテーマなのかもしれない。

【参考文献】
▽塩沢実信「昭和の戦時歌謡物語」 展望社 2012年
▽古関裕而「鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」 主婦の友社 1980年 
▽ソ連帰還者生活擁護同盟文化部編「われらソ連に生きて」 八月書房 1948年
▽「戦後史大事典 増補新版」 三省堂 2005年 
▽橋本健二「はじまりの戦後日本」 河出ブックス 2016年
▽ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会・編集・発行「捕虜体験記1 歴史・総集篇」 1998年
▽池田重善「活字の私刑台」 青峰社 1986年
▽「画報現代史・戦後の世界と日本 第6集」 国際文化情報社 1954年
▽佐藤悠「凍土の悲劇 モンゴル吉村隊事件」 朝日新聞社 1991年
▽ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会・編集・発行「捕虜体験記6 ザバイカル地方・モンゴル篇」 1988年
▽山浦重三・石井栄次・蒲原正二郎「ウランバートル吉村隊 外蒙の幽囚」明日香書房 1949年
▽鈴木雅雄「春なき二年間」 自由出版 1948年
▽御田重宝「シベリア抑留」 講談社 1986年

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。

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