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堀の水面がピンクに染まる「花いかだ」も幻想的…弘前城が“全国屈指の桜の名所”である理由

2021/05/10
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 元和元年(1615)の武家諸法度公布後は城の新築・改築が厳しく規制されたため、天守ではなく本丸辰巳櫓の改築という名目で幕府に申請し、三重櫓を建てて天守代用としました。初代天守は五重で、現在の本丸未申櫓跡にありました。

 特徴は、東・南面と西・北面の装飾が違うこと。城外側の東・南面は破風や出窓などの装飾がつきますが、城内側の西・北面はそれらがなく、採光用と思われる銅板張りの窓がついています。天守は四面に装飾がつきますが、櫓は城外側にしかつきません。

装飾がつく南面と、つかない西面。
天守を間近に見られるのは今だけ。

 現在、天守は石垣の修復工事のため本丸の中央付近に移動中。間近で天守壁面の装飾が見られるのは今だけです。

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津軽統一を果たした、津軽氏の城

 弘前城は、津軽為信が築城を計画し、子の2代・信枚が完成させた城です。弘前藩の祖・為信は、陸奥で強大な勢力だった南部氏からの独立を目指し、17年がかりで津軽統一を果たしました。

 時代の風向きを読むことにも長けていたようで、豊臣秀吉、徳川家康と上手に付き合って津軽氏を繁栄させました。子の信枚が家康の養女・満天姫を正室に迎えて徳川家との繋がりを生かし、津軽家繁栄の礎を築きました。

天守の瓦には、南部氏の家紋が。
妻飾に見られる、青海波の紋様。

 徳川幕府との親交の証なのか、徳川幕府の城との共通項が見出せます。江戸城の富士見櫓をはじめ徳川家の城にある建物の意匠に影響を受けているようで、白漆喰壁に銅板張りの妻飾、青海波の紋様が見られます。