雲海に浮かぶ「天空の城」として、一躍有名になった竹田城(兵庫県朝来市)。9月~11月の早朝は、気象条件により標高353.7メートルの古城山山頂に残る石垣が雲海から頭を出します。 

 竹田城が雲海に浮かんで見えるのは、視界を遮るものがない山上にあるから。敵を監視する役割も担う城にとって、これは大切な要素。城のある風景が絵画のように美しく、また城からの眺望が抜群であるのも当然なのです。

立雲峡から望む、雲海に浮かぶ竹田城。

交通上の要衝にある“国境の城”

 歴史を紐解けば、竹田城は国境の城として古くから重要な役割を担っていました。この地は、但馬(兵庫県北部)、丹波(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)、播磨(兵庫県南西部)の交通上の要衝。播磨の姫路から但馬・丹波方面へ北上する街道と、但馬・丹波の2国を縦断する街道の交差点です。竹田城からは丹波との国境が見え、鳥取方面に通じる街道も見渡せます。

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 竹田城のはじまりは、但馬守護の山名氏と播磨守護の赤松氏の軍事衝突がきっかけでした。さらには、源平合戦から南北朝時代にかけても、この地は山陰道から播但道へと軍勢が往来した地域でした。

竹田城の天守台から望む、天空の城。
城下町を見下ろす。丹波との国境も見える。

三英傑が重視した理由とは

 国境という立地に加え、竹田城から15キロほど南にある生野銀山の存在も忘れてはなりません。信長の命令によって但馬へ侵攻した羽柴(豊臣)秀吉がこの地を抑えた理由のひとつと考えられるのが、生野銀山の掌握。竹田城から直径20キロ内には、生野銀山のほか明延銅山、中瀬金山など直轄鉱山が集中。財政資源として絶対的な価値があったのでしょう。

 但馬守護の山名祐豊が堺に亡命した際に信長の御用商人の今井宗久に一千貫の借金をして信長に献納して但馬復帰を果たした、という逸話も残ります。宗久の狙いは、ずばり生野銀山の経営権。それに同意して山名氏を援助した信長の主目的は、銀山経営による但馬経略でした。信長は早い段階から、生野銀山を重要視していたのです。

 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後には、いち早く徳川幕府が直轄地としています。これも、生野銀山の確保が目的と思われます。

雲海が去れば、周辺の街道や城下町が一望できる。

秀吉が重視した最新鋭の城か

 竹田城の価値は、大きく2つあります。ひとつは、土の城から石の城への変遷期に最高峰の技術で築かれた城であることです。

 竹田城の石垣は、同時期に積まれた石垣と比較しても量が膨大かつ高い技術力を誇ります。石垣を積んだのは、天正13(1585)年に入った秀吉配下の赤松広秀。信長が登用した石工、穴太衆(あのうしゅう)が手がけたとされますが、2万石の広秀が穴太衆を単独で掌握していたとは考えられず、秀吉の支援が考えられます。