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 竹田城は、例えるならば大坂城(大阪府大阪市)を本社とする秀吉の支社といったところ。秀吉は広秀の前に実弟の羽柴秀長を一時的に在城させており、重視していたことがうかがえます。信長の家臣時代に手中に収めるとある程度の待遇をし、天下人となってからは大坂城を防衛する支城と位置付けたようです。

 秀逸な縄張(設計)からも、秀吉の関わりが推察できます。竹田城は山頂の天守台を中心に、三方向に向けて尾根上に曲輪が段層的に広がります。要所に櫓台を置き、枡形虎口や喰違虎口を多用した戦闘的な設計です。

中央が天守台。天守が建っていたかは定かではない。
天守台から見下ろす、南千畳。

 城内にはくまなく横矢が掛けられ、搦手にあたる花屋敷には向かい合った石塁で防御性を高めるなど、かなり技巧的といえます。さらに、南千畳から城下に向けた大規模な2本の竪堀をはじめとして、周囲に堀切や竪堀などの防備装置を効率的に配置。こうした設計は、織田・豊臣系の城の特徴といえます。

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手つかずのまま江戸時代を生き抜く

 もうひとつの価値は、江戸時代に修復されることなく終焉を迎えた奇跡的な城であることです。

 広秀は慶長5年の関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に従属した後に東軍へ移るも、家康の怒りを買い切腹し、竹田城に戻ることはありませんでした。城主不在となり、徳川幕府の直轄領となって400年以上の時を超えています。

三方向に、放射状に積まれた圧巻の石垣。

 全国の城は、関ヶ原の戦いの後に新たな城主によって改修されたり、廃城となるケースがほとんどです。たとえば宇喜多秀家の岡山城(岡山県岡山市)も、城内に残る石垣のほとんどは、秀家が関ヶ原の戦い後に去った後に城主となった池田氏が積んだもの。新たな城主が入ることなく江戸時代に改修の手が入っていない竹田城の石垣は、全国的にかなり希少性があるのです。

 訪れる者を圧倒する、圧巻の石垣が竹田城の最大の見どころ。大小さまざまな石材を組み合わせて積んだ野面積みの石垣は、荒々しくも独特の美があります。隅角部の「算木積み」もまだ未発達で、それもまた古めかしく趣があります。ところどころにはめ込まれた縦長の石も、古い時代の石垣の特徴です。

野面積みの石垣が魅力。
趣ある鎬積みの石垣。

撮影=萩原さちこ

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 竹田城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」1月号の連載「一城一食」に掲載しています。