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新人賞に投稿し続けた22年、覚せい剤で廃人同然だった姉の最期…作家・樋口有介が語った“人生のどうにもならなさ”

2021/12/17
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 今年10月、ミステリ作家の樋口有介さんが急逝されました。享年71。

 高校時代から純文学作家を志して新人賞に投稿し続け、書いても書いても1次審査すら通過できない雌伏の時代を過ごしました。1988年、38歳のとき、背水の陣で書き上げた初のミステリ小説『ぼくと、ぼくらの夏』でようやくデビュー。90年には『風少女』を発表し、直木賞候補になりました。

 自身の出生の秘密、度重なる女性トラブル、「終の棲家」として辿り着いた沖縄の家……。“人生のどうにもならなさ”について語った「新・家の履歴書」(「週刊文春」2019年2月21日号掲載)を特別に転載します。

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沖縄県那覇市にある自宅の前で(2019年撮影) ©文藝春秋

 真冬にもかかわらず、庭にはブーゲンビリアが生い茂る。私立探偵「柚木草平シリーズ」などで知られる小説家・樋口有介さんは、2011年6月から沖縄県那覇市に移住し、眼下に市街地と海が望める高台の一軒家で、一人暮らしをしている。

「こんなに長く、ひとつの家に住むのは初めてです。今まで40回ぐらい引っ越してるんですよ」

 1950年7月5日生まれ、本名は樋口裕一。出身は、群馬県前橋市だ。

「中学3年の時、両親が市内に平屋の家を建てたんですが、それまでずっと借家暮らし。その時点で、8回引っ越ししています。貧乏でしたから、家財道具もほとんどない。両親と4つ上の姉とで、リヤカーで引っ越していましたね。

父親が脱サラ、事業に失敗、多額の借金

 農家の離れを間借りして、6畳1間に親子4人で暮らしていた時は、お風呂場どころか台所やトイレすらありません。その部屋に、刑務所から出てきた父親のお兄さんが半年ぐらい居候していたんですよ。6畳1間に、5人暮らし。子どもの頃は家にいるのがとにかく窮屈で、嫌だった思い出しかないですね。

 借金取りがよく家に来たことも覚えています。父親が脱サラして運送会社を始めたんですが、失敗して結構な額の借金をこしらえたんです。結局、父親はプリンス自動車(現・日産)の営業マンに再就職し、母親は仕事を辞めていたんですが、復職して小学校の先生をしていました」

樋口有介さん(2004年撮影) ©文藝春秋

 1957年、前橋市立岩神小学校に入学。「教師が言うことにいちいち楯突くような、生意気な子供でした」。1963年、前橋市立第三中学校に入学する。

「前橋工業高校の野球部が強くて、プロ野球選手になった人も多かったんです。私もそのコースを目指していたんですが、小学校の時に玉投げしすぎたせいで、肩と肘がダメになった。じゃあどうしようかという時に、のちにグラン浜田というリングネームでプロレスラーになる、同級生の濱田くんから柔道部に誘われました。大会でも結構、いいところまでいきました。

小説に滲み出る「人生のどうにもならなさ」

 スポーツで身を立てられたらなと思っていたぐらいなので、運動はできたけれども、勉強はまったく駄目でした。よく喧嘩もしていた、いわゆる不良です。

 小学校の時に生徒会長だった女の子が、なぜか私に惚れてくれてね。頭のいい子に限って、不良が好きなんですよ。でも、私が好きだった別の女の子に告白したら、『樋口くんはいつも喧嘩ばかりしている。そういう人は嫌です』と。人生ってのは本当に、うまくいかないですね(笑)。どうにもならない。

 その後も折々で感じてきた『人生のどうにもならなさ』は、私の小説の中に滲み出ているのかなと思います」

 中学3年の時に、樋口家は初めての我が家を得て、4畳半の自室を手に入れた。その家の中で、将来を決定付ける出合いがあった。