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「歌えなくなることだけは避けたい」「喉や声帯にメスは入れたくない」…がん宣告を受けた忌野清志郎が死の直前まで貫いた“ロックンローラー”としての誇り

『人間晩年図巻 2008-11年3月11日』より #2

2022/02/10
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「デイ・ドリーム・ビリーバー」の真実

 88年に父親が亡くなったあと、母方の親戚から清志郎に、実母の形見の品々が入った箱が届けられた。両親が養い親であることは小学生の頃から健康保険証の記載でそれとなく気づいていたが、6年間の闘病ののちに父親よりも早くに死んだ養母が実母の妹だったと知ったのは高校生のとき、父の定年退職後のことだった。

 実母の初婚相手はレイテ島で戦死していた。戦後、再婚して清志郎を生んだが、清志郎が3歳のとき亡くなった。そのあと、妹とその連れ合いが養父母となって清志郎を育てたのである。

 形見の箱には、かわいらしい顔立ちの実母の写真と日記、それに初婚の相手が戦地から出した手紙などが入っていた。「帰らざる人とは知れどわがこころ なほ待ち侘びぬ夢のまにまに」と実母が詠んだ短歌もあった。戦争と国を恨む日記の記述は、清志郎に強い印象を残した。

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 翌89年発表の「デイ・ドリーム・ビリーバー」の「彼女」、誰もが失恋のことだと思っていた歌詞、「もう今は彼女はどこにもいない」は実母を歌ったものだった。フォーク時代には反戦歌に興味をしめさなかった清志郎が、反戦・反原発に過敏になったのはこれ以後である。

 88年、全曲洋楽カバーのアルバム『COVERS』を発表した。これは外国曲のスタンダードナンバーに、まったく違う意味の日本語歌詞をのせる試みだった。しかし清志郎以外のメンバーは乗らなかった。たまたま現場を訪れてバンドの不穏な空気に驚いた泉谷しげるが清志郎に、ファンは君にあたらしいものなんかもとめていない、いままで通りでいいんじゃないかというと、清志郎はめずらしく強く反発した。

 RCサクセション再編成の契機となったこの『COVERS』中の1曲、「放射能はいらねえ、牛乳を飲みてえ」と歌ったシングル「ラヴ・ミー・テンダー」が発売中止になったのは、電力会社への配慮の結果と思われるが、東芝EMIは「上記の作品は素晴しすぎて発売出来ません」と告知した。