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「歌えなくなることだけは避けたい」「喉や声帯にメスは入れたくない」…がん宣告を受けた忌野清志郎が死の直前まで貫いた“ロックンローラー”としての誇り

『人間晩年図巻 2008-11年3月11日』より #2

2022/02/10

 数々の大ヒット曲を生み、多数のファンに愛されたロック・ミュージシャン忌野清志郎氏。しかし、大ヒットした「ぼくの好きな先生」を発表してからも月給は3万円ほどと、同氏の音楽人生は順風満帆というわけではなかった。伝説のロックスター忌野清志郎は、どのようにして評価を勝ち取り、どのように人生の幕を下ろしたのだろうか。

 ここではノンフィクション作家の関川夏央氏が著名人の晩年を鮮明に描いた『人間晩年図巻 2008-11年3月11日』(岩波書店)の一部を抜粋。忌野清志郎氏が歩んだ軌跡をたどる。(全2回の2回目/前編を読む)

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 ロック・ミュージシャン忌野清志郎は1951年4月2日、東京・中野で生まれた。学齢では昭和26年組の最年長である。その後多摩・小平に移り、小学校入学前に国立に越した。絵と音楽の好きな子だった。

忌野清志郎氏 ©文藝春秋

 地元中学2年生のとき、「ベンチャーズを見て、かっこいいなーって」、初めてギターを手にした。3年生の秋、勤労感謝の日に中学校の仲間とバンド「The Clover」を結成したが、卒業とともに解散した。都立日野高校に進んで、2年生の、やはり勤労感謝の日に結成したバンド名は「The Remainders of the Clover Succession」、略して「RCサクセション」であった。芸名「忌野清志郎(本名・栗原清志)」とおなじく、センスのよい命名であった。

 中学生時代に仲間を呼んでバンドの練習をしたのは、1950年代に建てられた国立の実家である。父親の定年退職を機に、平屋建て3部屋の家に2階3部屋を増築した。賃貸用のつもりだったそのひと部屋に、清志郎はデビュー後も25歳まで出たり入ったりして過ごしたという。敷地60坪ほどの平凡な家で、当時は周りに似たような家が10軒くらい建っていたが、99年まで残っていたのはこの家だけだった。すでに両親は亡くなっていたその99年、実家の写真を忌野清志郎はアルバム『冬の十字架』のジャケットにつかった。

『冬の十字架』(SWIM RECORDS)

「ここから俺のロックが生まれたんだ」と訴えたかったから。「高度成長期をくぐりぬけてきた、ちょっと古めの日本国民なんだぞ」みたいな(「家の履歴書」週刊文春、99年10月21日号)

「ぼくの好きな先生」

 日野高校時代の忌野清志郎はバンド活動に熱中した。69年、3年生の夏休みにトリオのRCサクセションとして東芝音工のオーディションに合格、プロになるつもりでいる息子を心配した母親が、清志郎が気を許していた高校の美術教師に相談した。母親としては、魅力的な絵をかく息子が美大に進み、将来は美術教師となることを望んでいた。相談された教師は、美大もいいが、大学に行かせたつもりで何年か好きなことをやらせてみるのも悪くはないでしょう、といった。

 高校卒業直前の70年3月、「宝くじは買わない」でデビューした。経済を主題とした先端的なロックソングとして記憶に値する曲だが、まったく売れなかった。

 72年、高校の美術教師の思い出を歌った「ぼくの好きな先生」が大ヒット、RCサクセションの前座を井上陽水がつとめるほど売れた。だが月給は変わらず3万円だった。この曲は清志郎が長髪のまま歌った一種のフォークソングで、フォークブームが終ると人気は急下降、立場は逆転してRCが井上陽水の前座になった。