73年、井上陽水のアルバム『氷の世界』に、清志郎が陽水と共作した「帰れない二人」「待ちぼうけ」の2曲が収録された。このアルバムは日本初のミリオンセラーとなり、清志郎も500万円ほどの印税を受け取ったが、すべて楽器や古着の着物の購入にあてた。長い雌伏の時代のあと、76年にアルバム『シングル・マン』を発表した。だが、あたらしすぎたのかこれも売れず、バンドメンバーとも不協和音が生じて活動停止寸前となった。
性的なのに清潔
転機は78年であった。当時「古井戸」というフォークグループにいたギタリストの仲井戸麗市(通称チャボ)と組み、さらに「カルメン・マキ&OZ」にいたメンバーを加えてあらたなRCサクセションを結成した。忌野清志郎は長髪を切り、毛を逆立てた「ツンツン頭」にした。奇抜で派手なユニセックス的メイクアップとコスチュームをまとった。さらに原宿で安く売られていたおもちゃをアクセントに、腕には「研修生」と書いた腕章を巻いた。
ライブハウス中心、表舞台では忘れられていた感のあるRCサクセションだが、1980年1月、「雨あがりの夜空に」を発売、性的なのに清潔感がある日本語を8ビートに乗せ、極端に個性的なパフォーマンスで歌ったこの曲はあたった。高く美しい声で、絶叫しても歌詞がはっきり聞こえるのは清志郎の得がたい特徴だった。
翌81年のRCサクセションは、クリスマスの日本武道館さえ瞬時に完売となる勢いだった。清志郎が武道館の満員の観客に、「こんなに狭いライブハウスは初めてだぜ!」とうそぶくと観客はまた歓呼の声を上げた。しかしそれでも、月給は9万円にすぎなかった。
当時の人気テレビ歌番組「夜のヒットスタジオ」にロックバンドとして初めて出演したのも81年であった。清志郎は、ナマ本番中にわざとダンサーに抱きついて顰蹙を買った。翌年同番組に出演したときは、テレビカメラのレンズに嚙んでいたガムを貼り付けた。批判が殺到したが、父親は「プロレスみたいでカッコよかった」と寛大だった。母親は「しゃべりが下手だ」と注文をつけたものの、なんとか食べて行くことができそうな息子に、初めて安心したようすを見せた。
82年、坂本龍一と組んだシングル「い・け・な・いルージュマジック」がヒット、清志郎と坂本龍一のキス・シーンの広告写真が話題をさらった。ライブのステージでは、オーティス・レディングのショーからヒントを得た観客への呼びかけ、「愛しあってるかい?」が浸透し、原宿は清志郎ファッションの少年少女であふれかえった。デビュー以来軋轢が絶えなかった所属事務所との契約を終えた85年、個人事務所を設立した。