文春オンライン

「歌えなくなることだけは避けたい」「喉や声帯にメスは入れたくない」…がん宣告を受けた忌野清志郎が死の直前まで貫いた“ロックンローラー”としての誇り

『人間晩年図巻 2008-11年3月11日』より #2

2022/02/10
note

「完全復活」のはずだった

 50歳から自転車に乗りはじめ、どこへ行くにも自転車を使って健康そうに見えた忌野清志郎だったが、必ずしもそうではなかった。

 1970年代にかかったB型肝炎が80年代に再発した。ライブのステージでの疲労が普通ではなかったので病院に行くと、「現代医学では治らない」といわれ、「目の前が真っ暗」になった。

 藁をもつかむ思いで漢方医を訪ねると、顔を見ただけで「君はがんだ」といわれた。ひどいショックを受けた清志郎に、「私の言うとおりにしていれば大丈夫だから」と漢方薬を処方してくれた。それを飲んでお灸をしているうち、やがて快方に向かった。実際に肝臓がんだったかどうかはわからないが、一時症状は深刻だった。

ADVERTISEMENT

 2006年は清志郎55歳の年である。ナッシュビルでレコーディングし、「B.B.キング・ブルースクラブ」で日本人として初のライブを行って帰国した7月、喉頭がんを告白して療養生活に入った。喉を酷使したせいか。あるいは酒豪で愛煙家でもあったせいか。

 医者に手術を勧められた清志郎だが、「歌えなくなることだけは避けたい。喉や声帯にメスは入れたくない」「放射線治療も避けたい」として、抗がん剤治療をえらんだ。自宅の一室を無菌室に改造し、抗がん剤の副作用に苦しみながら、持ち込んだギターで作曲をつづけた。

 治療の効果があがって、寛解と判断された08年2月、日本武道館に13200人という満席の客を集め、「忌野清志郎 完全復活祭」を開催した。病後とは思えぬパフォーマンスを忌野清志郎が繰り広げるステージの背後の大画面は、抗がん剤の影響で完全に抜けた髪が復活するまでの自撮り映像を映し出した。みな「完全復活」を信じた。だがその年の夏、腸骨への転移が見られ、再度療養生活に入った。

 忌野清志郎が亡くなったのは2009年5月2日である。「団塊の世代」とは学齢で1年と1日しか違わず、内向的ではあったものの「団塊」的な感傷癖と自己憐憫癖に無縁だった偉大な詩人・ロックンローラーの生涯は58年であった。5月9日、青山葬儀場で行われた葬儀「青山ロックン・ロール・ショー」には43000人が参列した。

【前編を読む】AV出演で得た収入は3000万円…“バブルの娘”として時代を駆け抜けた飯島愛の“知られざる晩年”

人間晩年図巻 2008―11年3月11日

関川 夏央

岩波書店

2021年12月27日 発売

「歌えなくなることだけは避けたい」「喉や声帯にメスは入れたくない」…がん宣告を受けた忌野清志郎が死の直前まで貫いた“ロックンローラー”としての誇り

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー