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連載大正事件史

夫を追って日本へ…ドイツからやってきた美人令嬢に待っていた“暗転”の瞬間

夫を追って日本へ…ドイツからやってきた美人令嬢に待っていた“暗転”の瞬間

大戦の陰で起きた悲劇の「イルマ殺し」#2

2022/02/06
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「日露戦争でのロシア軍捕虜に対する待遇がそうであったように、第一次世界大戦のドイツ軍捕虜に対する処遇も、戦後への思惑と日本人特有の武士道精神とがあいまって寛大なものであった」と「福岡県警察史」は書く。

 確かに、戊辰戦争に敗れた会津藩出身で「捕虜経験」を持つ松江豊寿大佐が徳島の坂東俘虜収容所の所長として進めた捕虜政策は、書籍や映画「バルトの楽園」にも取り上げられたほど比類のないものだった。

収容所長が捕虜を殴打

 しかし、全部の収容所がそうだったわけではない。「日本軍の捕虜政策」は「捕虜が憎んだ『強制収容所』もあった。殴打が行われるなど、厳しい政策をとっていた大阪・松山・久留米・福岡の各収容所である。これらの所長は頑迷で、厳しすぎる規則に固執し、罰則も重かった」としている。福岡の場合は逃亡事件以後のことなのだろうか。

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 同書は中でも久留米の例を特記している。同書によれば、捕虜の怒りの対象は2代目所長の真崎甚三郎・陸軍中佐だった。同収容所では捕虜の殴打を認め、親族からの小包を放置していたことが主な理由で「真崎は何度も捕虜とぶつかっていた」(同書)。

福岡俘虜収容所。下士官・兵の収容施設か(「ドイツ兵捕虜と家族」より)

 福岡で逃亡事件が起きたのとほぼ同時期の1915年11月15日、捕虜将校2人と会談中、突然飛びかかって手で打ち伏せた。大正天皇即位の祝賀で捕虜将校にビール1本とリンゴ1個を配ったところ、「本国政府の許可なく受け取れない」と返却してきたことに激高したという。捕虜らしくなく態度が傲慢だという理由だった。

 ドイツ将校は全員連名で抗議文を中立国のアメリカ大使館に出している。真崎はのちに陸軍三長官の1つである教育総監に就任。大将に上り詰め、陸軍「皇道派」のリーダーとして二・二六事件の黒幕ともいわれた。

 そんな大物軍人の捕虜観が軍全体に影響を与えないはずがない。「日本軍の捕虜政策」は「久留米収容所には、のちのアジア太平洋戦争での捕虜問題の原型があった」と位置付けている。

社説におどった「捕虜論」

 青島攻防戦さなかの1914年10月30日の東朝社説は「捕虜論」と題して、欧州でドイツ・オーストリアとイギリス・フランスの両陣営から大量の捕虜が出ていることについて次のように述べた。

 降伏は武士の絶対の恥辱なるを観念し、むしろ死するにしかずと覚悟するは日本人の真面目(しんめんもく)なり。欧州の諸軍が交戦ごとに多くの醜虜(しゅうりょ=みにくい捕虜)をいだせるは、むしろ日本軍人が嘲笑の資料となすべきものなることを特記して、もって軍人及び一般教育家に警告せんと欲す(原文のまま)。

捕虜は恥辱と主張した東朝の社説

「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」と定めた「戦陣訓」が出されるのは二十数年後の1941年だが、既にメディアはこの段階で先取りしていた。イルマ事件について書かれたものには、どこか一種の遠慮というか、後ろめたさが感じられる。手を下したのが日本人だったことが理由だが、それだけではない。

 この第一次世界大戦で戦勝国となったことで、日本は世界の五大国の仲間入りを果たす。それは当時の人々にとって誇らしいことだった。しかし、そうなっても、日本人の多くは欧米との文化や生活レベルの決定的な差を自覚していた。