ほかの国に占領されるというのは、一体どんな感覚なのだろうか。私も敗戦後の占領下に生をうけたが、うっすらとした記憶しかない。たぶん、有形無形の傷痕が長く深く国や国民に刻み込まれるのだろう。
このシリーズは、事件が当時の人々にどう受け止められたかを視点の中心に置いて、新聞報道を基に振り返っている。しかし、今回の事件は、その時は出来事自体が全く報道されておらず、地元の一部以外にはほとんど知られていない。占領下、キャンプ近くで起きたアメリカ軍兵士の犯罪だったからだ。
いまも全体的な内容は分からず、どのように処理されたかも不明だ。ただ、この事件が示した問題点の核心は、間違いなく現在の私たちにも投げかけられている。今回も差別語が登場する。事件の特色を示すものなので、ご了解を。
敗戦から5年の夏、祇園太鼓が響く街で
福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)の「小倉祇園太鼓」は、戦国大名で小倉城主となった細川忠興が城下の繁栄と住民の無病息災を願って始めたとされ、400年の歴史を持つ国指定重要無形民俗文化財。明治時代の小倉を舞台にした小説で映画化もされた「無法松の一生(富島松五郎伝)」にも登場する伝統的な祭りだ。
敗戦から5年の1950年夏、久々に復活していた。7月12日付朝日(西部)北九州版は、太鼓を乗せた山車の周りに人々がにぎわう写真入りで「街中に“ヤッサ、ヤレヤレヤレ……”」の見出しの記事を載せている。
「“雨が降らねば金が降る”といわれる名物小倉太鼓ぎおんが11日から、威勢よく伝統のばちさばきもあざやかに、全市を太鼓のとどろきに包んだ。“ヤッサヤレヤレヤレ”、そろいの浴衣、向こう鉢巻き姿に小倉っ子の心意気は梅雨明けの暑気を吹っ飛ばした」
しかし、実際は小倉の街ではそのころ、大変なことが起きていた。
「集団脱走と暴行の正確な経緯を知ることは誰も困難である」
占領軍の検閲体制は終わっていたが、なお自粛が続いていたため、新聞報道はない。警察の正史に頼るしかないが、1980年に刊行された「福岡県警察史 昭和前編」も、事件の記述の冒頭で「昭和25年7月11日夜の小倉キャンプで起こった黒人兵たちの集団脱走と暴行の正確な経緯を知ることは誰も困難である」と断言。次のように書くだけで、後はほとんど、25年以上たって新聞などに掲載された証言を引いている。
この夜、小倉の街筋は、戦後初めて再開される祇園祭りの前日でにぎわい、ドドン・ドンドン……、独特の調子で打ち鳴らされる太鼓の音は、市民に“生活”が戻ってきたことを感じさせたが、その太鼓のリズムを別の感情で体で聞いていたのが、2日前、岐阜から城野の米軍補給基地(現自衛隊補給所)に到着していた第25師団24連隊の黒人部隊だった。朝鮮では国連軍が北(朝)鮮軍に押しまくられ、後退を続けていた。黒人部隊は、その不利な戦場の最前線に投入されることになっていた。
同日(11日)午後5時ごろ、(米軍補給基地)近くの三郎丸、富士本酒店に、ノッソリ2人の黒人が入ってきた。「酒をくれ」と言う。掃除をしていた主婦の元子が奥に酒を取りに行こうとしたとき、2人は陳列用に水を入れて飾っていた見本の1升ビンをつかむと表に走り去った。これが序の口だった。事件は午後6時すぎに起こっている。城野基地西側の有刺鉄線の柵を切り破って約200名の黒人兵が集団で脱走した。