この証言を載せた1975年7月12日付朝日(西部)朝刊は「まさに市街戦の恐怖」の見出しを付けている。そんな状況の中、唯一、約10人で独自に現場に出動した日本人警官隊があった。
黒原営団(旧日本陸軍兵器廠の職員住宅街)は闇の中に静まり返っていた。白い歯が見えた。黒人兵だ。路地の奥で板塀をひっぱがす音。ののしり合う声も響く。警棒を握りしめた手に汗がにじむ。これだけが頼りだ。数メートル先で黒人兵が4、5人こちらをにらんだ。が、こっちの制服姿にひるんだらしい。相手も銃を持っていない。1人を2、3人が包むようにじりじり近づいた。民家から小さな人影がそっと近づいた。「娘を押し入れに隠し、嫁は便所にひそませた。頼みます。守ってください」。老婦人が手を合わせた。だが、この地点は営団住宅街のほんの入り口。奥ではもっと大きな被害が起きているかもしれない。一帯にはもっと大勢の黒人兵が徘徊している気配だ。「多勢に無勢。身動きがとれない。応援を要請しよう」。本署に伝令を走らせた(小倉市警清水地区警ら隊長・警部補)
「主婦が襲われた、夫の眼前で犯された、娘さんが意識不明で倒れていた」
この警官隊は一時「黒人兵に包囲されて集中射撃を食い全滅したらしい」という情報もあったが、後で無事が確認される。不穏な状態だったことは分かるが、被害がいまひとつはっきりつかめない。そんな中で、伝聞だが、実態がうかがえる証言がようやく出てくる。
町内の主婦2人が暴行されたのを知っている。1人は30歳くらいの奥さん。うわさが広まり、事件後間もなく引っ越してしまった。もう1人は42、3歳だった。この人はご主人の目の前ではずかしめを受けたそうだ。それ以後、ご主人はぐらぐらして酒におぼれるようになり、しばらくたってから、酔っぱらって川にはまって死んでしまった。子どもさんが3人いたのに(主婦)
「福岡県警察史 昭和前編」は「脱走部隊のスミス代将が責任を感じて説得に回り、大集団を帰隊させることに成功したのは、既に夜半になろうとする午後11時半ごろだったというが、2、3名で組む脱走兵はあくる朝6時ごろまで、カービン銃を抱えて市内をうろつき、市民は夏というのに、雨戸を固く閉ざし、おびえながら一夜を明かした。脱走兵に踏み込まれた酒屋では焼酎の小瓶まで持っていかれた。婦女暴行既遂の届け出は1件もなかったが、『悲鳴が聞こえたので行ってみると、髪を乱し泥まみれになった女がうずくまっていた』というような話はいくらでもあった」と書いている。
朝日の証言記事で当時の浜田良祐市長は「後日、警察から報告書が届いた。風呂帰りの主婦が襲われた、夫の眼前で犯された、いまの競輪場の近くに娘さんが意識不明で倒れていたなど、人身被害だけで20件くらいはあった。実際の被害者はもっといたのではないか。報告書を残しておくと差し障りがあると思い、焼き捨てた」と語っている。
脱走兵たちは7月12日中にはほぼ帰隊したとされ、「数日して、黒人兵が基地にいなくなり、やっと平穏になった」(聾学校教諭)という。
その後の処理も占領下ならではだった。「事件の翌日か翌々日、50~60人の被害者を本署の3階講堂に集め、被害届をとった。ガリ版刷り、半ペラの粗末な用紙だった。酒屋がいた。婦人もいた。口々に無抵抗で受けた理不尽な被害を訴えた。しかし、警察に米兵犯罪の捜査権はなく、犯人の人相などは全く調べなかった」(小倉市警警備課渉外係)、「被害届は福岡にあった米軍情報機関(CID)の要請で作ったもので、そっくりCID係官が持って行った」(同)。