母親が3人の子供を殺害した1948年の「浦和充子事件」。裁判では刑の執行が猶予される等の“温情判決”が下された。ところがその後、「刑が軽すぎる」と参議院法務委員会が問題視し、国会と裁判所を巻き込む騒動に発展していった。(全2回の2回目。#1から読む)
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田中二郎・佐藤功・野村二郎によれば、参院法務委は3回にわたって調査員を派遣し、事件を担当した牛山毅・浦和地裁判事ら10人から事情聴取。厚生省や最高裁に裁判関連の報告を求めた。
山本祐司「最高裁物語(上巻)」によれば、牛山判事らの調査は3日間にわたり、調査員は「あなたは、子が親を殺すのは絶対に許せないが、親の生命より子の生命が軽いと思っているのではないか。子は親のものと思っているのではないか」などと次々厳しい質問を投げかけたという。
さらに、公判担当の柴崎四郎検事ら7人を委員会に呼んで証人喚問を実施した。判決が確定済みとはいえ、刑事裁判の担当検事を国会で喚問するのは前代未聞だろう。明らかに最高裁との了解事項を逸脱していた。
「裁判官、検察官とも事実の認定に誤りがある」
さらに「社会人心の動向を知るために」大河内一男・東大教授や評論家・松岡洋子、作家・宮本百合子、朝日・毎日・読売の社会部長らを公述人として法務委に呼び、意見を聴取。それらを基に翌1949年3月30日、法務委員会は参院議長宛てに報告書を提出した。報告書は、浦和充子の事件については「裁判官、検察官とも事実の認定に誤りがある」としてこう述べた。
1、判決は犯罪の動機を生活苦として捉えているが、当時充子は心中を決意しなければならないほど、生活困難な状況にあったとは考えられない
2、充子が本当に死を決意したものかどうかの事実認定には疑問が残る
3、量刑も軽きに失している。たとえ親の愛情に基づく犯罪行為であり、充子に再犯の可能性がないとしても、犯罪の残虐性や計画性、この種の犯罪に対する量刑の一般的基準と照らして、執行猶予の刑は軽きに失し、当を得ない
4、このように事実認定や量刑に妥当性がないのは、担当検察官と裁判官の封建的思想に対する批判や基本的人権尊重の認識が欠けていたためではないか