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連載昭和事件史

2021/06/27

 委員長は核心の尋問をする。

委員長 一体あなたは、自分の子どもを自分勝手に殺す。人の子どもなら殺しもしまいが、自分の子どもだから殺す。あなたが勝手に子どもの命をとってしまう。そういう考え方はどうですか。

 

充子 それはどう考えたって、愛情がなくて薄情な親になりますね。

 

委員長 薄情どころではないね。人の子どもなら大変な問題ですね。

 

充子 人の子どもなら、どんなことがあってもできません。

 

委員長 それと同様に、自分の子どもを……。子どもはあなたの所有物でないのだから……。そうでしょう。

 

充子 でも私は、極端に自分の子どもだからと思っておりましたから……。

 

委員長 自分の子どもだから、殺そうが生かそうが俺の勝手だという考えですか。

 

充子 いえ、そうではないのです。

 充子は託児所や民生委員、政府からの生活補給金の存在も知らないと言う。委員長らは、なぜ殺害する前に親族らに相談しなかったのかを繰り返し聞いている。時には夫語助を擁護するような尋問も。このあたり、封建性打破を調査の主目的としながら、問題を旧来の家族制度に落とし込もうとする矛盾が露呈している。結局、充子との質疑応答はかみ合わないまま終わった。

「家で面白くないことがあった」「妻の充子が結局、弟の子どもを懐胎した」

 さらに法務委審議の意図と限界を示したのは11日後の夫語助の尋問だった。語助は3度も軍隊の召集に応じたが、その間に家で面白くないことがあったと語った。委員長に「どんなことか?」と聞かれて口ごもりながらも、夫婦関係から事件にもつながる衝撃的な証言をする。

委員長 いいことがなかったということはどういうことですか。

 

語助 妻の充子が結局、弟の子どもを懐胎した。それから財産はほとんどメチャクチャにされてしまったのです。

 その子どもは中絶したという。そのころ、充子は軍にいた語助に自殺をほのめかす手紙をよこした。「それで、しょうがないから泣き寝入りにして、そのままにしていたのです」。語助は博打にはまり、大酒を飲むようになった自分について「兵隊に行って、結局それからそんなおかしな人間になってしまったのです」と述べた。親族からも全く相手にされなかった、とも。

「金遣いの荒いことははなはだしい」「自分の好きなことをやり放題にしておって」

 充子の証言とはたびたび食い違った。妻のことを「気の強いっていったら、熊と取っ組み合いをするぐらい」「金遣いの荒いことははなはだしい」「自分の好きなことをやり放題にしておって」などと証言。

 子どもを殺したことについて「とにかく神経質というのか、先のことを考えて考え詰めたらしいのです」と述べた。最後に委員長は本音の尋問をする。

委員長 要するに、あなたに面当てで子どもを殺したんじゃないですか。

 

語助 まあ、そういう結果です。そういうわけなのです。

やりとりから浮かび上がってくる「語られない事実」

 ここにきて法務委の狙いがはっきり現れたといえるだろう。国政調査権をふりかざしながら、GHQを筆頭に、占領下、新憲法施行間もない時勢に迎合した審議だったというのは言いすぎか。

 やりとりから浮かび上がってくる「語られない事実」は、充子に自殺以外のどんな道があったのか、それも親族以外に頼れる場所はなかったのかという点だ。国の福祉政策がどうなっていたかということになるだろう。戦後の混乱期とはいえ、そのことを国会も裁判所も検討すべきだったと痛感する。それは、夫のギャンブルや酒、DVなどで苦境に陥った現在の母子の問題にもつながる。さらにいまの裁判員裁判なら、充子はどのように裁かれるのだろうか?

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