新聞も「国政調査権の限界」(5月22日付朝日)、「参議院の政党化問題」(5月27日付読売)と社説で論じ、朝日は5月28日付から座談会「裁判の独立は侵されたか」を3回続きで連載した。
全体的には国政調査権に配慮しつつも「参院法務委はやりすぎ」の論調。さらに、憲法と刑法の権威である宮沢俊義、團藤重光・両東大教授が、参院法務委の行為を「司法権の独立をおびやかす」としたことが大きかった。
5月29日付東京新聞1面に「法務委員長の見解は 参院の意見でない 松平議長、慎重取り扱いを要望」という記事が載った。松平恒雄・参院議長が「法務委員長から見解発表が行われてしまったのであるが、これは参議院全体の意見ではない」と言明したという内容。ここに至って、「論争は事実上、最高裁側の『勝利』という形で終わった」=山田隆司「戦後史で読む憲法判例(21)『国政調査権』と浦和事件」(「法学セミナー」2015年9月号所収)。
「有識者」の間でも意見が分かれた。「サンデー毎日」1948年12月29日号で元東京日日新聞(現毎日新聞)主筆の阿部真之助(のちNHK会長)は、母親の行為を「子に対する愛」であり、「裁判官たちが素直に母親の心持ちをくんで、可能の限りの寛大の処置に出たことも、正しい、美しい人間的感情が流れ出たもの」「私がもし司法の職にあるなら、この裁判官のなせるところのものをなしたであろうと信ずるものである」と判決に賛同した。
「婦人グラフ」1949年3月号で女性活動家の河崎なつ社会党参院議員は真っ向からこれを批判して「子は親だけのものではない」「新憲法のもと、文化国家として進展すべき途上にある日本の母子の問題のために、断然反対する」と表明した。
こうして、浦和充子が3人の子どもを殺した事件は国会と裁判所を巻き込んだ騒ぎに発展し、やがて沈静化した。いまの時点から考えると、参院法務委と最高裁双方が、GHQの“鼻息をうかがいながら”自らの存在を必死にアピールしていた印象を持つ。しかし、問題を見渡してみると、国政調査権と司法権のせめぎ合いの中で、すっぽり抜け落ちてしまった「語られない事実」があるのに気づく。
充子は、伊藤法務委員長が談話を発表した翌日の1948年11月26日、夫の語助は同年12月7日、参院法務委に証人として出席した。刑確定後とはいえ、3人の子殺しの執行猶予中の母親と、ギャンブルで妻をそこまで追い込んだ夫が国会の場で証言するのは以前も以後もないだろう。伊藤委員長らは2人にそれぞれの責任を追及。尋問は微に入り細をうがっていて、対する2人の証言からは人間の愚かさ弱さが如実に現れている。
「生活苦」ではなかった?
11月27日付毎日には「“愛情が足りぬ” 子殺しの母泣き崩る」の見出しで充子の証人喚問の記事が載っている。「私はわがままで愛情が足りない母親だったかもしれません」という証言と併せて、目頭をおさえた充子の写真も。