九州・小倉で起こったアメリカ兵脱走事件。200人を超えるともいわれる数の黒人兵が収奪や暴行を働いた事件だったが、アメリカ軍の強い影響下にあったため1950年当時、事件はほとんど報じられなかった。

夜の小倉の街に現れたアメリカ兵相手の女たち(「激動二十年 福岡県の戦後史」より)

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 こうしてアメリカ兵脱走事件は、多くの日本人にとって未知のまま終わった。それを世に広く知らしめたのは松本清張氏の小説「黒地の絵」だった。事件当時、朝日西部本社広告部員で図案の仕事をしていた彼は、証言にも出てきた黒原営団に住んでいた。

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松本清張©文藝春秋

 事件が起きた1950年7月11日、清張氏は会社からの帰途、午後9時すぎにアメリカ軍補給基地付近を通ったが、何も気づかなかった。「あくる朝になって、なんとなく外が騒がしい。近所の人が方々に不安そうな顔で立ってひそひそと話をしている。まわりには警官がうろうろしていた」と「半生の記」で回想している。

 同書によると、1954年に上京したとき、事件が全く知られていないことに驚いたという。1975年7月16日付朝日の証言記事で、氏は「この問題をこのまま埋もれさせてはならない」というのが執筆の最大の動機だったと語っている。

「黒地の絵」は、実際のエピソードを例にとり、妻が黒人兵から集団暴行を受けた男が復讐のため、刺青を頼りに朝鮮戦争で戦死した兵の遺体を探すストーリー。雑誌「新潮」1958年3月、4月号に掲載された。

 実際に、小倉の補給基地では、遺体の確認と修復・保存処理をしてアメリカ本国に送る業務をしていたことが、当時携わった日本人人類学者らの証言で裏付けられている。清張氏は2年後の1960年、ノンフィクションシリーズ「日本の黒い霧」の連載を開始。「黒地の絵」は氏が「社会派小説」に踏み出した最初の作品とされる。

朝鮮戦争で戦死したアメリカ兵の遺体は小倉で処理後、故国に送られた(「激動二十年 福岡県の戦後史」より)

日本女性への「肉体の防波堤」

「黒地の絵」事件ほど大規模なものは少ないが、占領軍兵士の犯罪は各地で頻繁に発生した。それは、事実上アメリカ軍がほとんどを占める「進駐軍」(連合国軍・占領軍のことを当時はそう呼んだ)が日本に上陸する前から危惧されていた。特に心配されたのは女性への性的暴行。

 そのため、日本政府関係者は敗戦直後から、その対策を講じていた。敗戦から約半月後の1945年8月31日付朝日2面にこんな広告が載っている。

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「特殊慰安施設協会」とは略称「RAA」。「戦後史大事典増補新版」にはこうある。