1946年4月12日、蒲田1丁目の工員宅に黒人兵2人が侵入。工員は夜勤で留守だったが、家には乳飲み子を抱えた妻がいた。アメリカ兵は妻を拉致。六郷川の川べりで計6人で暴行した。さらわれたことを知った自警団がアメリカ兵を包囲して棒で殴るなどのリンチを加えた、というのが真相だった。
解放されて帰隊した兵から報告を受けたアメリカ軍は戦車5台、砲3門、機関銃、自動小銃で武装した300人の部隊を出動させて付近を封鎖。アメリカ兵の女狩りが発端だったことをほとんど認めず、警視庁捜査一課長の仲介も一蹴してリンチ犯の引き渡しを要求した。
結局、町内会長が出頭。「占領目的阻害行為」とされ、軍事裁判で「重労働3年、罰金1万円、小菅刑務所で服役」という重刑を課せられたという。
「報道は厳重に事実に基づかなければならない」
占領下、こうした理不尽な出来事は枚挙にいとまがなかった。この事件も全く報道されていない。1946年5月3日付朝日2面には「米兵に群衆の暴行 蒲田で数十人の日本人」という2段見出しの記事がある。
東京・蒲田の路上で、アメリカ兵2人が15~20人の日本人に杖や木銃で殴られた。その後、日本人4人が横浜でアメリカの軍事裁判にかけられ、被告の1人に終身、他の3人に20年の重労働が言い渡されたと報じられた。佃実夫「占領下の軍事裁判」(思想の科学研究会編「共同研究 日本占領」所収)は、「おそらくその婦女暴行事件への怒りだったのであろう」と指摘している。
日本占領に当たった連合国軍総司令部(GHQ)は1945年9月19日、表現内容審査のために作成した基準(プレスコード)を指令の形で日本政府とメディアに提示した。
「報道は厳重に事実に基づかなければならない」に始まる10項目。中には「連合国占領軍について破壊的批評や、占領軍に対して不信、または怨恨を招くような記事は掲載してはならない」という項目も。検閲体制が終了する1949年10月まで、新聞と出版の自由な報道を制約し、その後も占領が終わるまで実質的に機能した。
問題の連隊のその後
「黒地の絵」事件に話を戻そう。事件を起こした兵を含む第24連隊はその後、どうなったのか。陸戦史研究普及会編「陸戦史集第1・朝鮮戦争 国境会戦と遅滞行動」には「第二四連隊の戦闘」の見出しでこう書かれている。
この連隊は、連隊長ホートン・V・ホワイト大佐を除き、他の要員は全員黒人で編成されていた。「ジュース・フォア」というあだ名を持ち、第8軍の中でこの連隊だけが3個大隊編成であった。同連隊は(1950年)7月12日、釜山に上陸し、直ちに尚州に前進して、主力で槐山道を、第3大隊で醴泉-咸昌付近の守備に任じたが、第3大隊は21日、醴泉を放棄し、勝手に韓国第18連隊と交代して後退してしまった。大隊は敵から撃退されたということであったが、確かめに行った第35連隊長フィッシャー大佐には、大隊が交戦したとは思えなかった。
(7月)26日、第24連隊は尚州西側の守備に任じていた韓国第1師団からその任務を継承し、槐山-尚州道を南進する北鮮第15師団を阻止するため、まず尚州西方16キロの高地の陣地を占領した。連隊は3個大隊を集結し、砲兵2個大隊の支援を受けていた。ところが、兵員の中には陣地を離れて勝手に後退する者が多く、ある時は、第3大隊全部が理由の分からぬパニックを起こして壊走したこともあった。
7月29日、第1大隊は、敵の迫撃砲の射撃で60名もの損耗を出したので、その夜パニックを起こして退却した。
第24連隊は離隊防止に格別の処置をとらねばならなかったようである。このように、黒人兵には戦意がないように見受けられた。
7月31日の夜、第24連隊は北鮮軍の圧迫に耐えかね、第35連隊第1大隊に収容されて尚州南側に後退した。同連隊は11日の間、尚州の西側面を守ったが、受けた損害は戦死27、負傷293、行方不明3の計323名であった。
とても勇猛果敢とはいえない部隊だが、そこには“弾除け”に扱われているという不満と怒りがひそんでいたのではないだろうか。