アメリカ軍の資料に残されていたもの
2012年に発表された加島巧「『黒地の絵』-松本清張のダイナミズム」(「長崎外大論叢第16号」所収)はアメリカ国立公文書館などで米軍側の資料に当たった結果をまとめている。その中では、「当時、進駐軍は『Weekly Summary』なるものを東京の本部に送っていた」とあり、その1950年7月15日付に黒人兵集団脱走が記載されているという。その要旨は――。
1.7月10日夕方に小倉郊外で起こった集団脱走事件については、地方警察が7月11日にPSD(公安課)に報告している
2.約100名の黒人兵が脱走したようだが、翌日朝鮮半島に送られる兵隊のようである
3.多くの犯罪を起こしたが、日本人1名死亡、1名重傷
4.CIC(防諜隊)による調査では、関係した兵隊は10名で、死亡やけがをした人はいない。その地区のMPが事態をコントロールしている
5.第8軍のMPはその事件に気づいていなかった
6.11日午後には、100名の集団脱走は誇張であることが分かった
7.約10名の黒人兵が許可を得ずに、日本を出発する前に逃げ出したと思われる
8.脱走兵を隊に戻す際に、黒人兵は発砲した
9.日本人にも兵隊にもけが人は出ていない
10.兵隊は予定通りの出発のために隊に戻った
公安課とはCISの一部門。占領下の情報収集活動の中心だった。CICもかつての「対敵諜報部隊」で、当時はG-2の民間諜報課に属する諜報機関。
この報告からいろいろなことが分かる。まず、事件の発生が、言われてきた7月11日ではなく10日だったこと。それで第24連隊の釜山上陸が7月12日だったことが理解できる。
しかし、それ以外の内容には疑問の点が多い。3と9は明らかに矛盾する。実際の逃亡兵は約10人だったというが、加島巧「『黒地の絵』の小倉」(「松本清張研究第15号」所収)に載っているアメリカ国立公文書館所蔵の日本人被害届は56件。加害者を「15~16人の黒人兵」としている届けがある。
朝日の証言記事にも8人の一団が確認されており、もっと人数が多かったことは容易に想像できる。日本の警察やCICの出先が事実を矮小化した疑いがありそうだ。鴨下信一「誰も『戦後』を覚えていない【昭和20年代後半篇】」は、この事件に触れたうえで「米兵による強姦事件が公になると、被害者は日本の社会ではその後暮らしてゆけない。このタブーはこの頃まだまだ厳然としてあった。この集団脱走の時も、この種の事件は闇から闇へだっただろう。いずれにしろ、これ以上の事実究明は不可能といっていいだろう」。