今回取り上げるのはいまから1世紀以上前、第一次世界大戦で日本軍の捕虜となって福岡県の収容所にいたドイツ人将校とその妻の物語。妻が強盗に押し入った男に殺害され、夫が妻の後を追って自殺。妻は当時現職のドイツ海軍大臣の娘だったことから国際問題になりかかった。
日本の世界大戦参戦の陰で起きた夫婦愛の悲劇だが、事件を記述した新聞や関連資料の筆はどこか鈍い。そこには、夫妻を死に追いやったことへの日本人の後ろめたさだけではないものが感じられる。
考えてみれば、明治維新以降、近代化と繁栄の“坂道”を上り続けてきた日本という国家が、坂の一番上に達したのがこの時期だった。続くシベリア出兵あたりから陰りが見え始め、やがて戦争と崩壊の昭和に至る。
そうした視線で見ると、この事件には、そうした“下り坂”の予兆がそこここに見え隠れしていることが分かる。当時の新聞記事はほとんどが文語体だが、適宜口語体に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。
「市外で惨殺されたドイツ海軍大臣の令嬢」
事件が起きたのは1917(大正6)年2月末だが、新聞で報道されたのは40日以上たった同年4月10日付朝刊だった。
俘虜(ふりょ)男爵大尉夫人兇刃(きょうじん)に斃(たお)れ 夫大尉悲痛の極自殺す
福岡市外住吉町簑島土手、深野別邸に居住している、福岡収容所・ドイツ俘虜大尉ザルデルン氏夫人イルマ(30)は2月25日未明、寝室において凶賊のために殺害され、夫男爵大尉(39)またその変を聞き悲痛の極、3月1日、収容所において自殺を遂げた大悲劇がある。本社は当時いち早く探知したが、2件ともその筋の記事差し止め命令に接したため、報道の自由を有しなかったが、こんにちようやく解禁されたから、左に項を追うて詳報することにした。
福岡県の地元紙・福岡日日新聞(現・西日本新聞)の口語体の記事はこう書きだしている。当時は捕虜のことを俘虜と呼んだ。
ザルデルン大尉は、福岡県久留米市教育委員会「久留米俘虜収容所Ⅴ ドイツ兵捕虜と家族」(2011年)の「Ⅳ福岡俘虜収容所」に載っている遺書の署名によれば、ジークフリート・フォン・ザルデルンが正式な氏名。同書はザルデルン大尉の子孫から寄贈された資料を使っており、最も信頼が置ける。
同じ日付の東京の新聞は読売が「俘虜の妻を惨殺 夫も愛人の後を追ひ(い)て變(変)死」、報知は「福岡市外で惨殺された獨(独)逸(ドイツ)海軍大臣の令嬢」、時事新報が「俘虜少佐(大尉の誤り)の悲劇」などと見出しを立て、多くが社会面トップで報道。特に福岡日日は2ページ全部を使って大々的に伝えた。