「あのショッキングな現場を描写する言葉はとてもありません」
次男の名前は記事や資料によって表記が違うが、「ドイツ兵捕虜と家族」によれば、ペーター・ホルスト・フォン・ザルデルンが正式の名前のようだ。「ドイツ兵捕虜と家族」には、青島ドイツ軍参謀本部の参謀長でやはり捕虜になっていたザクサー大佐がカペレ大将に宛てて送ったとみられる報告書が載っているが、大佐はザルデルン大尉に代わって殺害現場に入って遺体を確認。「あのショッキングな現場を描写する言葉はとてもありません」と書いている。
大佐は解剖にも立ち合い、頭が血だらけで後頭部に挫傷があり、それで気を失っていたのだろうと、新聞報道にも、のちの容疑者の自供にも出てこない事実を記している。ザルデルン大尉には、遺体が自宅に戻ってベッドに横たえるまで対面させなかったという。東日の記事には夫のその後の動向もつづられている。
一方、イルマの夫ザルデルン大尉は、この悲報に接するや、憂慮のあまり喪心の体となったため、江口収容所長はその心中を察し、同日直ちに衛兵2名と同僚のドクトル・ハック、ウイッドマン大尉の両人を付き添わせ、イルマの住居におもむかせ、死別の情を尽くさせたが、帰来食事もとらず怏々(不満で心がすさむ)とし、ついに子どもらは東京の宣教師ミルレーダに託する旨の遺書をしたため、3月1日未明に亡き妻の跡を慕って縊死を遂げた。翌朝、点呼の際発見し、大いに驚き、それぞれ手続きをしたうえ、2日午後1時に福岡収容所内の広場で葬儀を行い、同日午後、九大医科大学内火葬場でだびに付した。
大佐宛ての手紙には…
「福岡県警察史」などによれば、捕虜収容所となっていた福岡市・須崎裏の旧赤十字病院の自室で、入り口ドアのちょうつがいに電灯線を引っ掛けていた。
福岡日日の記事によると、白い寝巻のまま、ひざまずいた形で首をつっていたという。テーブルの上には軍服が折りたたんで置かれ、その上に遺書があった。義父の海軍大臣カペレ大将宛てで、「福岡県警察史」に載っている内容は福岡日日とほぼ同一だが現代文になっている。
最愛なる父の一人娘たるイルマは、何者とも知れぬ凶刃に倒れて、何とも申し訳がない。自分と妻とは結婚当初に固い約束を結んでいた。その約束は互いに生死を誓ったのである。わが身死すれば妻も死し、妻逝けばわが身も逝くとの約束は固く結んでいた。われはいまこの約束を果たすにすぎぬのである。
このうえは、父上の率いたまうドイツ海軍が全勝せんことを望み、2人の孤児の身の上をよろしく頼む。なお、日本官憲は妻の横死につき深甚の同情の意を表し、その葬儀もまたすこぶる丁寧を極め、目下犯人の探索中であれば、遠からず逮捕されるであろう。