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連載大正事件史

「寝巻ははだけ短刀で突き刺された惨状は…」《新聞掲載差し止め》襲われた国際的大物の令嬢と“酷すぎる現場”

「寝巻ははだけ短刀で突き刺された惨状は…」《新聞掲載差し止め》襲われた国際的大物の令嬢と“酷すぎる現場”

大戦の陰で起きた悲劇の「イルマ殺し」#1

2022/02/06
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 2月24日の夜9時ごろ、イルマの家の正面から1人の賊が庭に入り込んだ。しばらく庭の植え込みに身をひそめ家の中をうかがっていたが、明かりが消えて寝静まった午後11時半ごろ、星の光を頼りに雨戸を外し、室内に忍び込んだ。応接間からイルマの寝室に入ろうとしたとき、物音を聞きつけたイルマは枕元のスタンドをつけた。賊はふすまの陰に隠れ、息を潜めた。イルマは立ち上がって、コードのついてるスタンドを持って応接間をのぞき、そこに照らし出された賊を見て、大声をあげ、賊に飛びかかった。イルマは賊を押し倒し、馬乗りになって賊の首を両手で絞めた。賊は必死になってもがく。ふところに忍ばせていたあいくちを下から突き上げた。イルマは悲鳴とともに倒れた。顔を刺したのだ。賊はイルマの上に馬乗りになり、両手でイルマの首を力いっぱい絞めた。どのくらい時間がたったか分からないが、イルマの体が動かなくなった。賊は、息を吹き返さないように、スタンドのコードをイルマの首に巻きつけた。立ち上がって、賊は格闘の間に消えたスタンドをつけ、ベッドの枕元にあった黒革のカバンを手に裏庭から暗闇に消えて行った。

事件の前年からパン屋で働き、いったん辞めたが事件後にまた…

 田中徳一の生い立ちなども各紙に載っている。東日の記事によると、佐賀市で庶子(正妻以外の女が生んだ子ども)として生まれ、4歳のころ、近郊の青物商の養子になった。だが、ほかに5人の実子がおり、家が貧しいうえに複雑な家庭環境だったことも拍車をかけたのか非行へ。1913年6月、窃盗事件で懲役3月に処された。

 出獄後、関西に行っていたが、事件の前年6月から小倉のパン屋で働き、いったん辞めたが、事件後に「また使ってくれ」とやってきた。パン屋の経営者によれば、パン作りは非常に上手だった。住み込みで、当日は一人で活動写真(映画)を見に行って帰ってきたところを逮捕されたという。

逮捕された田中徳一(東京日日)

確実に狭められていった「包囲網」

「福岡県警察史」によれば、逮捕に至るまでには刑事たちの血のにじむような苦労があった。事件発生とともに非常線が張られ、福岡市内の旅館、木賃宿、遊郭、料理屋などの一斉臨検が行われたが、手がかりはなく、うわさだけが街に飛び交った。

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 物取り説のほか、外国人男性との痴情のもつれや、夫に嫉妬されての無理心中……。「外国人説が多かったのは、イルマのツメに2寸(約6センチ)ぐらいの外人の毛髪が残っていたためだった。ザルデルン大尉も外人説を信じて、遺書に『犯人はたぶん英人ならん』と書き残している」と同書は書いている。