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連載大正事件史

「寝巻ははだけ短刀で突き刺された惨状は…」《新聞掲載差し止め》襲われた国際的大物の令嬢と“酷すぎる現場”

「寝巻ははだけ短刀で突き刺された惨状は…」《新聞掲載差し止め》襲われた国際的大物の令嬢と“酷すぎる現場”

大戦の陰で起きた悲劇の「イルマ殺し」#1

2022/02/06
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 登場人物の素性が分かる見出しは東京日日(東日=現・毎日新聞)。「戦慄すべき―強盗の兇刃 惨殺されしイルマ夫人  俘虜となれる良人、ザルデルン大尉=大尉は……獨逸前参謀総長の息 獨逸から遥々(はるばる)尋ね来しイルマ夫人=夫人は……獨逸前海軍大臣の娘」。

報道解禁で一斉に事件が新聞紙面をにぎわせた(東京日日)

 イルマの実父はエドワルド・フォン・カペレ海軍大将。東日は「前海軍大臣」と書いているが、現職で、職名はたびたび変わったが、当時のドイツ海軍トップだったことは間違いない。

「当時成立したばかりの内閣は事件の重大さに驚愕し…」

「福岡県警察史 明治大正編」(1978年)は「(事件発生の)急報は福岡警察署・広田署長へ、次いで(県)警察部へ、さらに警察部から内務省へと報告がなされた。当時成立したばかりの寺内(正毅)内閣は事件の重大さに驚愕し、内務大臣・後藤新平に早期解決を指示し、政府は連日のように県知事、警察部長を激励した」と記している。

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「政府が一地方に起こった事件をこれほどに重要視したのは、イルマがドイツ軍捕虜のザルデルン大尉の妻で、当時敵国とはいえ、ドイツ海軍大臣カペレ大将の娘であったからであった。日本は微妙な国際的背景の中にあった」(同書)

 新聞記事の掲載が差し止められたのもそのためだった。当時の新聞記事は書き方に決まりがないうえ、強盗殺人と自殺と容疑者逮捕が一緒になっているため分かりづらい。見出しも重点の置き方がバラバラで、夕刊紙の都新聞(現・東京新聞)は「獨逸俘虜夫人殺し捕らは(わ)る 砲兵大尉の自殺、犯人は事實(実)を自白」を主見出しにしている。

「寝巻は乳房のあたりまではだけ、短刀にて突き刺され血潮はふすまにまで飛び散っている惨状に…」

 事件の内容は、比較的流れが分かりやすい東日の記事を見てみよう。

 凶行の翌朝、すなわち(2月)25日朝5時ごろ、厨夫(台所担当の雇い人)歌三郎の妻が例のごとくイルマの部屋を温めようと母屋におもむき、取り乱したあたりの光景に不審を抱き、寝室に入ったが、イルマはおらず、隣室9畳の間の入り口に、寝巻は乳房のあたりまではだけ、仰向けに打ち倒れ、顔面右頬部及び胸部を短刀にて突き刺され、雪白の寝巻は半ば朱に染み、血潮はふすまにまで飛び散っている惨状に仰天し、その筋に急報した。係官は時を移さず臨検した結果、寝室内のテーブル上にあったプラチナ腕巻き時計及び真珠入りプラチナ指輪、紙幣・銀貨取り交ぜ100余円(現在の約27万円余)ほどが入った財布その他が紛失していたため、全く窃盗の目的をもって忍び入り、イルマに発見され、格闘の末、殺害、逃走したものと判明した。

 死体は夫ザルデルン大尉に一見させた後、九州大学(九州帝国大学医科大学)法医学教室に運び、高山博士執刀で解剖に付したが、その際、死体の腰部に付着していた短刀のはばき(刀身とつばの接する部分にはめる筒状の金具)を発見。これを端緒に犯人の捜索に着手した。ちなみに、凶行の際、隣室に寝ていた次男オルストは、母の殺される物音を聞いたが、恐ろしさに毛布を被ってそのまま夜を明かしたという。