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 ザクサー大佐宛ての手紙には「自分と妻の死体は共に願わくば同じ穴に葬ってください」とあった。ザクサー大佐の報告書によれば、青島ドイツ軍参謀本部司令官で膠州総督のワルデック海軍大佐とともにザルデルン大尉の部屋に入った際、机の上に5通の手紙があった。

 カペレ大将、ザクサー大佐ら4人宛ての手紙と遺書1通で、遺書は遺産処理が中心の事務的な内容だった。ザクサー大佐は、イルマの死後、なるべくザルデルン大尉のそばにいるようにしていたが、大尉は「概して気丈な様子を見せ、全ての案件にも機嫌よく応じ」「本当の内面の思いや意図を示唆するようなものは何一つなかった」という。

「署で一応取り調べしたところ、奪った真珠入り指輪、プラチナ腕時計などを所持していたため…」

 容疑者逮捕に至るおおまかな経緯と自供内容も東日の記事から。

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 この重なる椿事に、その筋では必死に犯人逮捕の活動をし、(4月)7日に至ってようやく小倉市(現・北九州市小倉北区、小倉南区)烏町2丁目、パン屋岡城方のパン製造職工、通称神行富彌こと田中徳一(25)であることを突き止めた。福岡県警察部から出張していた中島刑事部長及び、大米龍雲を逮捕した刑事が、外出先から岡城方に戻ろうとするところを逮捕。小倉署で一応取り調べしたところ、イルマ方から奪った真珠入り指輪、プラチナ腕時計などを所持していたため、真犯人に相違ないと確かめ、8日午前11時14分、博多着列車で福岡に護送された。徳一は捕縛当時は小倉(織)の厚司(木綿の労働着)に茶繻子(織=サテンふうの織物)の帯を締め、ソフト帽をいただき、身の丈5尺1寸5分(約156センチ)、ひげ濃く、一癖ありげな容貌だ。

 田中徳一は厳重な取り調べに包むことなくついに「強盗の目的で2月24日午後12時(25日午前0時)ごろ、イルマ方勝手口の錠前をねじ切って忍び入り、イルマの寝室に至り、あいくちで「金を出せ」と脅迫したが応じないため、隣の客間に引き出し、頸部の下部と右乳の上を突き刺した。さらにイルマの寝巻で絞殺を図ったが抵抗され、電灯のコードで絞殺。現金100余円、カバン、時計、指輪などを強奪して逃げた」と自供した。

「福岡県警察史」での詳しい犯行の模様は次のようだ。東日の記事とは違う点もあるが、こちらが正確と思われる。