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1970年代に太陽光、水素エネルギーの有用性を説いてドン・キホーテ扱い…田中清玄が先見の明を持てた“理由”

2023/02/25
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一部ではドン・キホーテ扱いされたが少しずつ仲間は増えた

 1978年8月、英国のナショナル・コール・ボード(石炭省)のデレック・エズラ総裁が、中国を訪問した途中、日本に立ち寄った。その際、田中は、成田空港近くのホテルで、電源開発(Jパワー)の理事と燃料部長、経団連の土光敏夫会長の代理に引き合わせている。

 この席で田中は、ポスト石油時代に、原発のみに依存するのは危険と力説した。そして、資源国の豪州の石炭、それを英国の技術で液化し、日本の発電に使うのを話し合う。日豪英による石炭共同開発だ。

 また、同時期、田中は、アラブ首長国連邦の海洋微生物蛋白資源開発に乗り出した。友人のザーイド大統領に、アブダビ沖の海水から、太陽熱で蛋白質を作るプロジェクトを提案した。これから、飼料や食料を生産するという構想だ。

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 今は豊富な石油も、いずれは枯渇する。その時に如何にして国家の命を保つか、それには、無限のエネルギーの太陽と汚染されてない海水を使うべき、という。そのため、微生物の研究者から成る委員会を作り、初期の準備費用も田中が負担した。

 そして、日本の水素エネルギーのパイオニアで、横浜国立大学教授の太田時男にアプローチした。太田は、太陽熱を使って海水を分解、水素を作って、エネルギーにすべきと訴えてきた。「太陽・水素エネルギーシステム研究所設立計画」なる文書が、田中の遺品の中にあった。

 繰り返すが、これらは皆、今から40年以上も前の話である。まだ、再生可能エネルギーへの関心も低く、一部では、ドン・キホーテ扱いされた。そうした中で、研究者に一人、また一人と声をかけ、同志として参集させていた。

 前に触れたが、終戦直後、田中は、過激化した共産党から発電所を守るため、ヤクザや荒くれ男による「電源防衛隊」を組織した。それから数十年、古希を過ぎた彼が率いたのは、まるで「地球環境防衛隊」だ。

 面白いことに、平成を経て令和を迎え、太陽光と水素エネルギーの実用化が進んでいる。国内はむろん、世界中でソーラーパネルが置かれ、発電事業へ参入が進む。日本の自動車会社は、ガソリンの代わりに、水素を燃やす「水素エンジン」に取り組み、欧州の航空機メーカーも、ジェット燃料でなく、水素を燃焼させる旅客機の構想を発表した。また、太陽光の発電で海水から水素を作り、燃料電池に使う船も現れた。

写真はイメージ ©AFLO

 いずれも、ドン・キホーテ扱いされながら、田中が熱っぽく説いていたプロジェクトだ。それが、やっとESG(環境・社会・ガバナンス)、SDGs(持続可能な開発目標)の名で現実になろうとしている。