その姿を、おぼろげに覚えているのが、田中の長男の俊太郎だ。終戦直後、田中家は静岡県の三島に居を構えたが、そこへ、大山も姿を見せていた。
「まだ、幼稚園くらいですから。私は、小学校一年から東京なんです。大山倍達さんが、三島の家に来たっていうのは、うろ覚えに覚えてますよ。親父が、『空手の先生だ。お前も、少し習え』みたいなことを言ったのは、記憶にあります」
大山自身が、電源防衛隊に参加したかどうかは不明だ。ただ、田中の後輩の東大空手部に顔を出し、稽古をつけたこともあった。
秘密工作の資金の出どころ
この頃、太田はもう一つ、田中の指示で別動隊を組織していた。共産党に反発する地元の有志や若者を集めた、「会津再建青年同盟」である。
「地元で青年団体も作ったんです。鎌田弌っていう男がいてね。自分と同年代で、意気投合した。一緒にやって、随分助けてもらったね。初め、若松市内は共産党のビラだらけだけど、こっちは青年同盟のを貼った。学生たちを連れて行っては、殴り合いだよ。その鎌田君の上にいたのが、山王丸茂だった」
山王丸茂は、後に福島県経営者協会連合会の専務理事を務めた地元の有力者である。ヤクザも動員した電源防衛には、福島財界からの陰の支援もあったのだった。
だが、ここで疑問なのは共産党討伐の秘密工作、もとい第二工事の資金である。東京からの荒くれ男の旅費や給与、ビラの製作費など結構な金がかかったはずだ。それは一体、どこから捻出したのか。
ちょっと苦笑いしてから、太田が答える。
「そりゃ、やはり電力会社ですよ。自分が事務主任だった時は、工事で20人使うのに10人ばかり余計に入れるんです。本当の工事費に乗せてね。三幸に仕事をくれて、電源防衛の拠点にするということだった。所長に話をつけて、向こうで(現金を)出してもらってました。今から考えると、無茶苦茶だけどね」
紛うことなき裏帳簿である。土木工事の経費を水増しし、共産党討伐の工作資金を捻出した。これらは日発でも、ごく一部の幹部しか知らない、極秘の取り決めだった。