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謎の男たちの正体は…

 騒動の最中の8月上旬、会津若松駅に、この集団の親玉らしき男が降り立った。

 年の頃は40代半ば、痩せ型の、刺すような目差しで、当時では珍しい、背広に蝶ネクタイ姿である。プラットホームに降りると、出迎えた数人の用心棒が傍らについた。

 男の名前は、田中清玄、東京の築地で三幸建設という会社を経営する実業家だ。

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 だが、彼が会津入りしたのは、橋や道路の工事の指揮のためではない。猪苗代湖から流れる日橋川、その上流に位置し、首都の電力供給基地である猪苗代第一発電所、それを共産党の破壊から守るためである。

©文藝春秋

 

 戦後史の裏で暗躍して、どこかへ去っていった謎の男たち、それが田中率いる「電源防衛隊」だった。ドラマは、一人の若者が会津に送り込まれたところから始まる。

 敗戦から4年後、1949年の夏、まだ復員兵も目立つ会津若松駅で、太田義人は、期待と不安の混じった目で行き交う人を眺めていた。長身が人目を引くが、顔には、まだ学生と言っても通用するあどけなさを残していた。

 当然である。その春、東京大学を卒業して三幸建設に入社、たった数ヵ月で、いきなり会津出張所長に抜擢されたのだ。

 本社では経理部だったが、これから猪苗代の山中で、年上の労務者を指揮せねばならない。日橋川に架かる橋や道路の工事の事務だが、それが、あくまで仮の姿なのはよく分かっていた。自分の正体は、当分、絶対に知られてはならない。

 まるで敵地に潜入する工作員だが、これも思えば、あの日、田中と出会ってから運命付けられていたのかもしれない。

金回りがいいという、大学空手部の先輩

「あの人は昔、東大の空手部にいてね、私も空手をやってたんで先輩に当たるんですよ。戦争中、入学したはいいけど、すぐ一年で海軍に入った。それで敗戦後、和歌山で海外からの引き揚げの世話をしておった。それで復学したんだが、先輩に田中清玄というのがいて、横浜で神中組っていう会社をやってて、金回りがいいっていうんだ。それで、カンパをもらいに行ったのが、そもそもの始まりですよ」

 北海道室蘭出身の太田は、幼い頃、両親に連れられて、台湾に移り住んだ。戦争中、東京帝国大学の文学部インド哲学科に入学したが、すぐ海軍予備学生として兵学校に入り、少尉で終戦を迎えた。

 その後は、和歌山県の田辺で、海外からの引き揚げ業務に従事し、四六年暮れに東大へ復学した。だが、古巣の空手部へ顔を出すと、戦後の混乱で活動資金もない。監督兼主将の太田は、部員らと警備のバイトに精を出すが、所詮、焼け石に水だった。