武装闘争路線へ走った共産主義運動
強烈な告発だが、昭和の時代、それも戦争直後を見れば、必ずしも荒唐無稽ではなかった。
1949年1月の総選挙で、共産党は298万票、35議席という空前の支持を集めた。国政への影響力も増すが、翌年5月、GHQのダグラス・マッカーサー総司令官は、共産党非難の声明を発表、翌月に、徳田球一や野坂参三ら中央委員24名を公職追放した。法と秩序を蔑視し、虚偽と扇動、破壊的手段で日本の立憲政府打倒に努めている、との理由だった。
そして、51年10月、共産党は、第5回全国協議会で新しい綱領、いわゆる「51年綱領」を採択した。
それまでの方針を転換し、暴力革命を採ることを表明、武装闘争路線へ走ったのである。その前年、国際共産主義組織コミンフォルムから、平和革命路線を批判されたのも、背景にある。
治安当局の焦り
以降、共産党はこれに沿って非合法活動を展開し、世間に衝撃を与えた。54年に国家地方警察本部が作った報告からも、治安当局の焦りが、はっきり伝わる。
「共産党の革命方式は、国会に議席を多数占めることによって政権を獲得するとか、単にゼネストやデモの圧力によって政権を獲得するとかという方式のものではなく、労働者のゼネスト武装蜂起とこれを援護する都市及び農村の遊撃戦によって政権を奪取しようとするものである」(『共産主義運動の実態』国家地方警察本部)
そして、党には軍事委員会が、各地の司令部には中核自衛隊、独立遊撃隊といった実力部隊が置かれた。
彼らは「武装行動綱領」も作り、基幹産業の労働者に食い込み、武器の調達と訓練をしているとされた。報告ではそれを裏づける事実として、50年代初めの武装活動を列記した。党員の家宅捜索で、拳銃やダイナマイトが見つかり、九州や福島、青森で、射撃や火炎瓶の訓練が行われた。