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「共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる」

 そんな時、部室の机で、長い間埃を被っていた古い冊子が目に入った。開くと、創立以来の空手部員の名簿である。それを頼りに先輩を訪ねて回り、カンパを募ることにしたのだった。

「それで、神中組が三幸建設に変わって、大学を卒業する時、『お前、これからどうする。よかったら、うちに来んか』と。『空手続けたけりゃ続けていいし、大学院行きたきゃ行っていい』って、随分いいこと言うんでね。それで、まぁ、大学の先輩という感じで入社したんです」

 そして、経理部に配属されて数ヵ月経ったある日、太田は突然、社長室に呼び出された。

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「すぐに会津若松の猪苗代に行け、って言うんです。共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる、東京を暗黒にして革命をやるつもりだ、とにかく行って準備しろ、後で行動隊を送る、と。確か、5000円もらって行きましたね。行くと、発電所で赤旗立てて朝礼やってるんだ。インターナショナル、歌ってね。でも、課長も係長もびびっちゃって何もできない。地元の警察は、『うちも、どうしていいか分かりません』なんて言ってるし」

労働組合運動の先駆となった電産労組

 若い太田が見たのは、まるで共産党の解放区のような光景だった。戦前、治安維持法で弾圧された共産党は、連合国総司令部(GHQ)によって合法化された。そして、自由を得た彼らは、次第に過激化していく。

 一部は公然と武力革命を唱え、その波は政界から官界、経済界、言論界まで及んだ。その格好の標的となったのが日本発送電、いわゆる日発だった。戦前に発足した国策会社で、全国の発電と送電を一手に担い、後にその一部は関東配電と合併し、東京電力となる。その労働組合が、共産党に牛耳られていたのだ。

 当時の関東配電の理事で、労務部長として組合と真っ向からぶつかったのが、木川田一隆である。後年、東京電力の社長と会長を歴任したが、回顧録で、生々しい証言を残している。

「アメリカの占領政策は、日本人が予想したよりもはるかにきびしいものだった。きびしいばかりではなく、次々と矢継ぎ早に手を打ってきた。電気事業の受けた第一の大きなウネリは、労働大衆の解放により、怒濤のように押し寄せてきた労働組合運動であった。その先駆としてリーダーとしてわれわれの前に立ちはだかったのは電産(日本電気産業労働組合)だったからである」(『私の履歴書 経済人13』日本経済新聞社)