晩年、田中清玄が心血を注いだ「再生可能エネルギー」

 1993年12月、田中清玄は、87歳で波乱の生涯を終えた。明治に生まれ、激動の昭和を駆けた男は、平成の幕開けを見届け、世を去った。そして、家族のもとには、生前の膨大な書類が遺された。

 その国際的な交友を物語るような、錚々たる人物との会見記録、書簡だ。欧州の名門ハプスブルク家当主のオットー大公、アラブ首長国連邦の初代大統領ザーイド、ノーベル経済学者のハイエク教授らの名前が並ぶ。

 その中に、一風変わったものが見つかった。文面に、「太陽光」「水素エネルギー」「石炭液化技術」とあり、専門誌の記事の切り抜き、英文の論文まである。

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写真はイメージ ©AFLO

 前回触れたように、1960年代、田中は、産油国や国際石油資本と渡り合い、いくつもの油田権益をもたらした。高度経済成長を謳歌する日本への朗報で、これにより、仲介した彼に巨額の手数料が転がり込む。「政商」「利権屋」と叩かれた所以だ。

 ところが、その田中が、あっさりと石油に見切りを付けた。そして、「右翼の黒幕」の彼が、晩年、心血を注いだのが地球環境問題、再生可能エネルギーだったのだ。

 これについて、40年以上も前のインタビューで、本人が熱弁を振るっている。少し長くなるが、紹介する。

1980年代初頭、田中が説いた原発のみに依存する危険性

「新エネルギーの開発、これはもう焦眉の急だ。その意味でも防衛力の増強なんてやってるときじゃないんだ。おれが、油がなくなるから太陽エネルギーへの転換を考えなくちゃいかんと説いてまわったのは、もう10年も前だよ」
 

「そのころは何も聞きもしないで、いまごろになって前から言ってたような顔をしてるから、新聞記者でも自民党の方でもおもしろいね。むろん太陽熱そのものだけでは、人類の文明、生活を維持するところの、油に代るエネルギーたり得ない。多面的にいろいろやらなくては。つなぎのエネルギーとしては、石炭の微粒子化、あるいは無公害液化、これは私たちも提携していますが、イギリスのナショナル・コール・ボード社でやっています。
 

 それから、ジェット燃料およびガソリンは、交通手段であり、コミュニケーションの手段として欠かせない。これに代るものといったら、海水です。そのものずばりでいうならば、海水から液体水素を抽出する。これを燃焼させると水になるから、リサイクリングはきくし、無公害ですよ。これをコストを安く大量にやるには、太陽エネルギーの利用ですよね。これは実験室でもみんなできているのに、パイロットプラントを作れなかった。石炭石油でどうにかなるという甘い考えだと思うんだけどね、そういう犠牲は払いたくない。それはその日暮らしの日本の欠点でもあるし、ひとつは、石炭石油のあとはウラン原子力でいこうというのがメジャー・カンパニーの戦略で、ウラン鉱を開発したから、それで、田中清玄、いらんことをするな、というようなことになった」(「月刊プレイボーイ」1981年3月号)

 そして、自ら、行動を起こした。