そして、晩年に作ったのが、「技士道 十五ヶ条」なるものである。武士に武士道があるように、技術者が持つべき道徳律、あるべき姿だ。
技術に携わる者は、失敗を恐れず、責任を転嫁しない。また、微かな異変も見逃さず、未来や子孫への影響を予見する。そして、人倫に背く目的には毅然として臨み、決して屈してはならない、という。
今から見れば、いかにも時代がかり、昭和の精神主義と笑われるかもしれない。だが、そこには、原子力船の事故を招いた反省が色濃く反映されたはずだ。そして、西堀は亡くなる前、こんな言葉を残している。
強硬な推進派と頑固な反対派の間に良識的で健全な判断力をもった中間層を
「エネルギー問題の将来は、そんな『すぐ役に立つ』目先のことだけをやればすむような生易しいものではないのです。好むと好まざるとに関わらず、必ず何もかもやっておかなければならない、多様化しておかなければならないものなのです。石炭も、太陽も、地熱も、そして原子力も、さまざまにある可能性のすべてを追求することが、われわれの義務なのです」
そして、国論を二分する原発論争に、こう訴えた。
「私にとってもっとも気がかりなのは、この世には原子力の強硬な推進派と頑固な反対派しかいないかにみえることである。この重大な人類の命運にかかわる課題に対して、ぜひ良識的で健全な判断力をもった中間層の形成を願わずにはいられない」
ここで、軽水炉と熔融塩炉、どちらが優れているかという話に立ち入るつもりはない。だが、原発にのめり込む電力会社、技術者を「ウラン馬鹿」と罵った田中、その彼が、西堀には最大限の敬意を払った。それは、この人なら信頼できる、という気持ちだったのかもしれない。
田中が亡くなってから、今年でちょうど30年を迎える。非合法の日本共産党を率いて逮捕、投獄され、戦後は、右翼の黒幕になった。いくつも石油権益をもたらしたが、晩年は、地球環境、再生可能エネルギーに情熱を傾けた。毀誉褒貶も激しいが、その先見性と行動力は、疑いようがない。
激動の20世紀を駆けた田中清玄の軌跡は、21世紀の今こそ、振り返る価値があるだろう。