60年前のきょう、東経45度の時間で午後8時57分(日本時間1月30日午前2時57分)、日本の南極地域予備観測隊が、南極大陸リュツォウ・ホルム湾東岸のオングル島に上陸した。

 この年7月から翌年12月まで64カ国が参加して国際地球観測年(IGY)が展開されることになり、南極観測はその一環として行なわれた。予備観測隊は基地建設を最大の目的として本観測隊に先立ち派遣されたもので、前年の1956年11月8日に隊員らを乗せた南極観測船「宗谷」が東京・晴海埠頭より出航、2カ月以上をかけて今回の上陸にいたった。

©iStock/KeithSzafranski

 基地は当初は南極大陸に置く予定だったが、輸送難からオングル島に変更される。観測隊長を務めた地球物理学者の永田武(東大教授)は上陸後、主要基地を中心に観測用前進基地を含む全地域を「われわれの時代を象徴する意味で“昭和基地”」と命名、同基地をIGYの日本隊基地とすることを発表した。

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 基地を構成するうち発電棟以外の建物(居住棟・無電棟・観測棟)はすべてパネル組立方式を採用した。これは木造パネルを特殊な金物のコネクターで結合して組み立てていくというもので、ようするにプレハブ建築だ。

 国産のプレハブ建築の先駆けとされるこの方式は、建物の工事に不慣れな少数の隊員によっても短時間で建設ができるよう採用された。それでも部材の誤差や組立時の誤差はどうしても生じる。通常の建築ではそれらの誤差を埋めるため、多少の寸法の余裕を持つ「逃げ」をあらかじめつくってある。

 だが南極の環境では「逃げ」はそのまま隙間となり、そこから冷気が侵入して室温を失わせかねない。そこで、パネルから生じる誤差はジョイント部(接合部分)にパッキングを付けることで吸収するなどの工夫が凝らされた(笹原克『浅田孝 つくらない建築家、日本初の都市プランナー』オーム社)。おかげで昭和基地の建物は当時の国内の家屋とくらべると気密がよすぎるほどで、観測隊は2羽のカナリアを一酸化炭素の検知のため連れて来ていた。

西堀栄三郎 ©文藝春秋

 基地設営は2月6日に完了する。本来の計画ではここで全員が帰途につくものとされていた。しかし副隊長の西堀栄三郎(化学者・登山家、京大教授)の強い主張で西堀自身を含む11名が第一次南極越冬隊として残り、ほかの隊員は2月15日に日本へ向け離岸する。

 このとき設置された建物はあくまで予備観測用に試作されたものだったが、翌58年の第二次越冬が断念され無人の状態になっても耐え、その後も3、40年間も使い続けられることになる(小野延雄・柴田鉄治編『ニッポン南極観測隊――人間ドラマ50年』丸善)。